2009-11-08

南洋の写生 井岡咀芳『南洋のたび 咀芳句日記』 橋本直

近代俳句の周縁 6  
南洋の写生
井岡咀芳『南洋のたび 咀芳句日記』(昭和10年4月非売品)

橋本 直


子規は石炭の時代の俳人であり、虚子は石油の時代の俳人である。新大陸での大規模油田開発後の世界は大きく変わることになった。地政学的には、石油のぶんどり合戦となった中で自国に油田を持たない日本は、再び江戸の生活に戻るのでもない限り(戻りようもないが)、それを求めて南方へ討って出るしかないと思われた。そしてその通りに行政も動いたが、もしそのことがなければ、虚子の歳時記に南方季語が入ってくることはなかったのではないか。立場上彼も微妙に片棒を担がされた「大東亜共栄の夢」とやらは、やはり居直り強盗的に後付の理屈の匂いがするが、しかし、過ぎ去ったものとしてドライに言い切ってしまえば、帝国主義の時代をロクに資源もなく社会資本も整っていない後発貧乏国家がサバイブする不安の中では、実態の怪しげな構想でもそれなりに人を酔っぱらわすヤケ酒の役割はしたのだろう。ともあれ、かつて日本に南方植民地(南洋委任統治領)があったころがあり、物語の中の存在であった「南の島」の世界が、本当に「領土」としてやってきたのである。 

中島敦は昭和16年夏より翌春まで、パラオ南洋庁の一国語編修書記として南洋諸島にいた。彼の代表作「山月記」の冒頭、「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、次いで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」は、高等教育までの教科書に載っている小説の中では一番好きな書き出しだった。高い教養とプライド(精神)がやがて精神とそれを持つ身体を変容させ、ついには人格を滅ぼしてしまうと読める短編物語。いかにも大正以後の戦前の知的大衆や、戦後民主主義教育が好んだ、男性的で倫理道徳的な読みが可能な肉体と精神の相克のお話。たしか資料には、中島敦は喘息の持病もちで長く苦しみ、温暖な気候が体に良いという理由で教員を辞めてパラオの南洋庁に勤めたと書いてあった気がする。彼の地でかえって風土病に悩まされ、結果として寿命を縮める結果を招いたとも。しかし、彼ほどの才人にして、南洋の風土病への認識の薄さ加減はかなり意外で、合理的には愚かとさえ思われ、上記説明は俄に信じがたいと思っていた。

後、彼が『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』のスティーヴンソンの境涯に強くあこがれ、作品に書いていたことを知った。スティーヴンソンは中島と同じような病弱な体であったが、作家として成功の後に南の島に移住し、現地にとけこみツシタラ(酋長)とまで呼ばれていたのだとか。なるほど中島敦の変身譚も、中国の怪異譚「人虎伝」に想を借りつつアウトラインは『ジキル~』と共通する点がある。彼は漢籍文明圏のジキルとハイドを書きたかったのか。そして中島も、帝国主義時代の酔っぱらいの一人として文学で成功し南洋のツシタラとなる甘い夢を見てパラオに出向いたのだろうか。

憧れの〈常夏の楽園〉としての南の島。一方で荒々しい野生動植物の世界〈ジャングル〉と、そこに棲む毛皮や植物を腰巻きにし、どくろのアクセサリーを身にまとう〈首狩族〉の怪しい太鼓や踊り。それらは現代の文化内にも濃厚に擦り込まれ共有され続けている。例えば、東京ディズニー「リゾート」では、物語によって囲い込まれた非日常の人工空間の中に、イメージのジャングルやコロニアルな建築群を見ることが出来るが、これらは既に戦前から広まっていたイメージであった。観光(つまりはそこに落ちるゼニ)の力によってそのイメージは現地人にも共有され、異文化のもったイメージを現地人が自ら演じてみせるようになるという状況もかなり早くからおこったようだ。現代の沖縄にもそういう側面を指摘する論があるが、事態はもう少し多様な視点で語れるだろう。ともあれ、間主体的造形イメージが社会的関係性の中で主体自身手による自己日常の読み換えを起こすという現象は興味深い。短時間にせよ、ディズニーランドの中では我々もイメージを意図的に世界観に乗っかってこまめに読み換えて過ごしている。それは我々の中の「南方」イメージが元々何に根ざしているかを垣間見せてくれる場であり、さらに言えば、読むことを含め知覚とはどのようなものなのかを見せてくれてもおり、そしてそれは私たちの日常と、俳句に於ける季語の世界の間の出来事ともそう大差はない話であることにも気づかせてくれる。

『南洋のたび 咀芳句日記』の著者である咀芳井岡大輔は、いわゆる専門俳人ではない。残された仕事からすれば在野の民俗学者のようでもあり、玄人はだしの画を描く人だが、醸造学も学んだ人のようだ。大阪朝日新聞 1942.3.4(昭和17)の記事に「ジャバ各地を踏破して、工芸家の角度からジャバ更紗を蒐集、昨年七月帰朝した大阪府立貿易館技師井岡大輔氏」(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫 東南アジア諸国12-063を引用)とあるから、とりあえずの職業は工芸家かつ技術系の公務員であったと思われる。この人物の多才さや行動力はかなり興味深いが、筆者はその辺の詮索を得意としない。

なぜ井岡が南方に出向いたのか、それが私意なのか仕事なのかははっきりしないが、おそらくその両方であろう。明確に南方の風土調査を行う目的をもっていたようで、その仕事は後に『ジヤワを中心とした南方の実相』(昭和19年3月湯川弘文館)(下写真参照)に詳しく纏められている。詳細は略すが、ふんだんに絵や写真をいれ、多くの南方の民族、産業、宗教などの調査報告をしており、物語の中のイメージとしての南方でない姿を描こうとするものである。お話の中の冒険旅行家気どりでやってくるアホな日本人を皮肉るセンスを持ち合わせており、当時の南方風土記とも戦後のルポルタージュの先がけともいえるかもしれない。井岡は昭和14年に満州の歳事を比較文学的に纏めた『一簣』(後に『満州歳事考』として再版)を天津で出版しており、両書とも大東亜の夢に乗っかった物言いの大仰な前書きがついている。戦時下の出版物には、検閲対策としてか、なにかとお国に貢献するため云々と書かれるのがお約束だから、それが彼の手段にすぎないものか、思想立場を真に反映しているのかは不明であるが、たんなる工芸家の仕事の延長とは思えない緻密さからして基本的に民俗学者的センスをもち風土、民族の風習などの調査が大好きな御仁であったことは確かである。

さて、『南洋のたび』は、出版年から見て上記の記事や著作より前の旅に基づく作であると思われる。カラーの口絵をのぞけば非常に粗末な作りで、印刷したものを折り返して紐で綴じただけの非常に簡素な作りである(冒頭写真参照)。奥付までで五三頁。頁カウントされていない口絵や序文をふくめても六三頁。非売品で、大阪の浜田印刷所で印刷されており、編集発行人は井岡本人。自費出版であろう。なお、口絵では句を絵の外に活字印刷してある(右写真参照)。本編にはいって各頁に画に句を添えた下に説明する短文をそえてあり(右下写真参照)体裁としては画賛集に近い。冒頭まず横顔の自画像、南方の風物のカラー口絵(おそらく水彩)の末に「バダビヤ市に於ける燕靑氏歓迎句筵出席者」として、主賓の木村燕靑(この人物未詳)はじめ井岡ら十七名が浴衣に団扇で涼む集合写真が掲載されており、この人々を中心に、縁のあった南方の知人や近親者に配るために少数を編んだ本ではないかと推測される。句会ならぬ「句筵」とは、洒落気で付けたか旧派俳諧の流れかなんとも言えないが、白黒の集合写真のなかにあって、同じ浴衣を着ながら他の勤め人とおぼしき人々に比し井岡の目線容貌ともに明らかに異彩を放っており、ただの役人でないことは一目明らかである。この点で中島敦に通うものがあるのではないかとも感じる。集中58の画と句がある。恣意でぬくと、

  ドリアンの熟れ落つる待つ集(つどひ)かな

  賓客やサラク、ジャムブウ、ランブウタン

  マンギスや月下に浮ける果房(ふさ)と果房(ふさ)

  山荘や椰子の根元の蘭の花

  赤道へ三日路なるを五月雨るゝ

  マカツサや瑇瑁(たいまい)語る汗の人

など。「ドリアン」「サラク、ジャムブウ、ランブウタン」「マンギス(マンゴー)」「椰子」「赤道」「?瑁」など、いかにも南の島のイメージである。南方季語と言えそうなわかりやすいところでは、上記を含めてドリアン、ランブータン(ランブタン)、マンゴー(マンギス、マンゴウ)、椰子、パパイヤ(パパヤ)、キャッサバ(カツサバ)などが使用されている。爪哇(ジャワ)、マカツサ(当時のセレベス(スラウェシ)島の中心港)をはじめ、地名などもふんだんにもりこまれており、その点では異国情緒たっぷりである。

「はしがき」で井岡は「句の形は成しても、所詮は自分勝手の素人句である。(中略)然し机上の句でも繪でもない。咀芳としての力一ぱいの寫實寫生である」と書いており、句も絵も写生であるという。筆者は絵は門外漢だから以下は印象批評だが、口絵のカラー画はいわゆる西洋絵画的写生であり、本編のほうは、中村不折の『不折俳画』(明治43)的な趣味人の絵と似通うように思う。一読して、井岡の言うとおりの南洋紀行記録句画集というところであるが、短文においては、短い見聞中にも作者の観察者としての比較的ニュートラルな視点があらわれるのを読み取れる。例えば、「日盛りや昼寝得ならず地のほてり」句では、「白人の習慣として夙に朝起きすれ共昼寝の風あり。真似てはみるも、ものにならざるは日本人なり。然し志那人の炎天下の活動振には一驚すべし」など、当時まだ蘭領で戦時では無い時期だったとはいえ、妙な日本文化中心主義な視点をもっていない。また、「稔田に隣る植田やスンダ唄」は、年中稲作をできるなか、稔りの隣でスンダ列島(インドネシア)の田植え歌が聞こえる様子を句に詠み込んだと思われるが、井岡は短文で「水の利と土地の肥度さへ許せば、一年中次々と稲作し得る筈なれ共、斯く迄にはなし。然し収穫、田植、開花の隣接相並列する田は折々見る所なり」と書くのである。句画のかもしだす異国情緒への演出意図はかけらもない。彼は雅文ではなくこのようなジャーナリストのような書き方をしてしまうのである。もし面白おかしく「異文化」を本土日本に伝えるだけなら、句画で喚起されるイメージをこわすような注意書きは付けないだろう。非常に趣味的な作本ながら、趣味的ではない目線がここには感じられる。そのような人物が、大東亜なんちゃらの夢に何の疑いもなくまるまる素朴に乗っかっていたとは想像しがたい。

先に書いたように、中島敦はその南方の現地人を教導するための教科書を作成するために役所から派遣されたのであるが、その間の書簡がまとめられ、中公文庫から『南洋通信』と題されてでている。これを読むと彼の南洋での経験や家族への思いがよくわかる。有名作家はある意味気の毒である。彼は役所の用意したパラオ島コロール町アラバケツ南進寮の12号室に住み、妻宛にまめに手紙を書き、覚悟の上とはいえデング熱のかゆみに苦しみ、快復後は島々まわり、日本に残した妻子の心配を細々し、幼い自分の子と現地の子のイメージを重ね、高くてまずいヤキソバやらお刺身やら食べている。その辺はまさに今時の単身赴任の若いパパと変わらない。

一方で、現地人を愛し、彼らを怒鳴りつけたりこき使う居丈高な日本人達を批判的に見つめ、戦時下で検閲があり表現に制限のあるはずの手紙の中でも「今度旅行して見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある。教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ」と妻に向けて書き、小品「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」では、「お前は島民を見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ」と内省もする。彼もまた、自身がイメージの楽園の中にいることを冷厳なまなざしで自覚している人であったようだ。彼もまた、変な夢に酔っぱらっていなかったことがわかる。彼がなぜ南洋に行ったのかは謎のままだが、おそらく動機の奥底には、観光的にイメージの中に遊ぶような、単純なあこがれや平凡な日常からの逃避志向ではなく、そこに行かなければ絶対にわからない求める何かがあると確信してしまったからなのだろう。何を見つけたか/なかったかをきちんと言葉にしきる前に、残念ながら彼は亡くなってしまうのだが。

我々は石油と原子力の折半の時代から、また違う形へと変わる過渡期の時代にいるらしい。既に石油の時代においても、石炭の時代に方法として開発された子規の「写生」は、当時の文化の中心地では古びていた。が、はるか南方の日本が領土的野心を持った場において、井岡のような素人俳人が、異文化としての南の島をさっと写して持ち帰るのにまことにもってこいの方法であった。その手法は、見ようによっては芭蕉の奥の細道の旅(とその後追いの旅)とかわりはしない性質をもつものだ。そこにある可能性と問題系は、様々なことを示唆してくれていると思う。

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