〔週俳1月の俳句を読む〕
宇志和音
「ハレ」と「ケ」と
【新年詠(2)】
一月一日が眠さうに歩いてゐる 島田牙城
この時期、年越しの忙しさから新年の行事へと、夜を挟んで立て続けに儀式が詰まっている。それ以外に、テレビも見なければならない。酒も飲まなきゃならない。客の相手もしなければならない。考えてみれば、元旦は、確かに寝不足気味だ。そんな一月一日を背負う人々が、眠そうに街を歩く。少し不気味でもある。「ハレ」の舞台でもある元旦の裏にある庶民の「ケ」の感覚をみごとに言い当てているように思う。
黒豆は遠くにありて淋しかり 中村十朗
あの馥郁たる蜜の甘さ。口のなかに幸せを運ぶような、黒豆の輝いている味わい。雑煮も御屠蘇もいいが、この黒豆はやはり正月の隠れスターであることは間違いない。正月というのに、その黒豆が、自分の近くにない。食卓の遠くに置いてあり手が届かないという解釈もあるが、やはり自分の故郷での、あの味を懐かしんでいる。自宅では味が違うのだろうか。遠い日の思い出が黒豆を通して、走馬灯のように浮かびくる。
あらたまの糖衣錠てふ慰めよ 野口る理
新年から体調が思わしくない。何も食べられない。それでも薬は飲まなければならない。何の薬丸だろうか。糖衣錠だから、薬自体はとても苦いのだろう。上五の「あらたまの」の枕詞が、粗玉、荒玉という、掘り出したままの玉〔薬〕まで連想させて面白い。せめて糖衣錠の甘みで我慢する正月。何とも愛らしく、可愛いい一句。
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ジッパーを音の噛みゆく寒さかな 興梠 隆
寒さを表現する音はいくつもあるが、ジッパーの音とは面白い。しかも物理現象というか、自然の法則というか、光〔映像〕と音の伝わり方の微妙な差まで表現されている。つまりジッパーが何とか引かれ、その後を音がぎこちなく追う感覚が「ジッパーを」の「を」と「音の噛みゆく」に端的に出ている。そこに強烈な寒さがある。寒さに震える手で引き上げるジッパーの頑なな音。このジッパー、社会の窓なら、男どもにはとても経験深く味わえる。
牛の眼に冬蠅の眼の重なれる
確かに、牛の眼のまわりには煩わしいほど蠅がたかっている。ただこの景、どちらかと言えば、少し暑い時期の感覚だ。しかしこの句は、冬の厳しさを牛と蠅の眼で語りかける。死に向かう蠅と春を待ちわびる牛ではあるが、そこには共通した孤独な淋しさが漂っているようだ。両者の眼と眼の間にある時間。この時間は冬の長さを持つ、静かな時間である。
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東京は西に山なす新酒かな 広渡敬雄
そういえば東京に住んでいるのに、東京の山のことをあまり意識したことはなかった。東京はあくまで、平らなるイメージであった。大都会である。この句は、その東京にゆるやかな凹凸と自然のチカラが潜んでいることを教えてくれる。確かに中央高速道を走れば、山に向かっている。その東京での正月。騒ぐでもなく、静かに、静かに、酒を酌む。それは内省の時間。西方にあるという浄土を思いながら。
2009-02-08
〔週俳1月の俳句を読む〕宇志和音 「ハレ」と「ケ」と
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