〔週俳1月の俳句を読む〕
山﨑百花
人生に深く関わることも
一月は新年詠があって、大変な句数です。
どれも作者それぞれの思いの籠った句ですから、良い悪いを基準にはできません。ただ、俳句が単なる思い付きや言葉遊びということではなく、人生に深く関わることも確かにしてきたことを思うと、内容がどうしても気になるところです。題材の軽い、重いは、作者の生き方にもよるのでしょうが、表現の軽さ、重さということもあり、楽しませていただきました。
いくつかの作品に、お粗末ながらコメントを付けさせていただきました。
【新年詠(1)】
旧海軍式敬礼や初明り 上野葉月
旧海軍式の敬礼は、いまでも海上自衛隊が受け継いでいるそうです。
真珠湾攻撃に始まる前の大戦では、多くの若人が命を落としました。日の本と言っている日本ですが、日本からみれば北アメリカ大陸が「日出づる国」の方角です。となると、平和な私達が頂く初明りにも、歴史を考えれば複雑なものがあります。「敬礼」という、普通の人の日常ではもう内容の疑似体験も難しいことを、句にしたのですね。
読者の心に、湧き上がる何かがあると思います。
人類に空爆のある雑煮かな 関 悦史
こちらも、こんにちただいまの、やはり通り過ぎることの出来ない句です。
飛行機は、人を殺すために発明されたものではありませんが、なににつけ、武器として高度な発達をとげてしまうのですね。宇宙への夢も、軍事費をたっぷり使っていることで膨らんでいるようですから。
ただ、こちらの句は座五に「雑煮かな」とあることで、いくらかの自己弁護が感じられます。生れる所を選べないのはお互い様で、悲劇に同情しつつも、自分がかわいそうな状態にならないことも大事なのですから。
生きるということは、そんなふうに片目を瞑ることも必要です。やはり複雑な心境です。
日輪のベルの鳴りたる初御空 中村光声
待ちに待った初日が、あたかもベルが鳴るように感じられたのですね。
その明るさ、大きさ。期待値を超えた答。
作者の心臓の鼓動も聞こえてくるようです。
樹の幹を叩けば音や去年今年 伴場とく子
樹はかなりの太さのあるものなのでしょうか。身を添わせ、樹に親しさを覚えている作者がいます。叩いて音がするのは当り前ですが、年輪を内に幾重にも持つ樹です。その年輪を、また今年もひとつ増やすのです。
作者の、越し方行く末への思いも、静かに加わります。
注連縄を使い回して拝みけり 宮﨑二健
社会時評を込めて。
ただ作者の名を見ると、ほんとにそうした、のでしょ? と思っちゃいます。
それでも、ちゃんと拝むのですね。そう、ちゃんと拝んだんだと思います。
狂信よりずっと真実な、作者の「使い回し」。
【新年詠(2)】
内湯から露天へと出る淑気かな 岡田由季
内湯から露天へ、淑気が出たのです。
裸の人間の、当然感じる温度差等が、新年という作者の意識ゆえに、低い温度等への反応として濃い淑気に感じられたのでしょう。
暦の上の約束事である新年は、自然の関知したことではありません。だから、内湯の淑気の濃度と露天の淑気の濃度に、差のあるはずがありません。ところが、露天のほうが、もっと淑気に満ちていたのです。なぜなら、淑気は全く作者の脳内にあるものだからです。
良い新年を迎えられましたね。
またもとの歩幅にもどる四日かな 仁平 勝
仕事にもよりますが、四日からご自分の仕事を始められたのでしょう。正月三が日は、やはり普通の連休とは違うのです。
今年は大量の失業者が出て、大きな問題になっています。が、作者にはきちんと仕事があるのです。前向きに仕事に関わっていることがわかります。戻るのは、必ずしも簡単ではないからです。
ただ、○○の歩幅、という表現はよくあり、もしかしたらこの句もどこかの結社の雑詠欄にあったかもしれません。どこかで見たような、自分にも作れそうな、という評を得る句は俳句としては成功と思いますが、ほんとにあったかもしれない、そんな句です。
●
埋火のごとケータイが明滅す 鈴木茂雄
ケータイを持つことによる事件の多発は年少の子供達にも及び、ゆゆしいことですね。
この句のケータイには、記憶を反芻するようになった年齢の作者を感じます。埋火だからです。喩えとしては情念の在り処のニュアンスがあるからです。
でもね、そういう方面の道具としてばかりじゃ、それも淋しいかも。
●
牛の眼に冬蠅の眼の重なれる 興梠 隆
牛はたくさんの蠅と共存してますね。いつも尾っぽを振っていなければなりません。
いま、牛の睫に蠅が止まっているのですね。牛の大きなみずみずしい目と、蠅の複眼とが出会うと、お互いにどう見えるのでしょうね。
静かな優しさが伝わります。
2009-02-08
〔週俳1月の俳句を読む〕山﨑百花 人生に深く関わることも
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿