2009-02-08

〔週俳1月の俳句を読む〕山口優夢 (大人ですから)

〔週俳1月の俳句を読む〕
山口優夢
(大人ですから)


新年詠(1)】

かがむ子をいぢめる遊び松七日   谷口智行

お正月には親戚の子供が実家に遊びに来たりして、普段会えない子供たち同士が遊ぶこともあるだろう。「かがむ子をいぢめる」という行為は、明らかに上から見下ろしている視線を感じさせる。この視線に感じるリアルさが句の勘所だろう。「かがむ子」と門松の大きさが同じくらいだろうなあ、という連想から、門松の立ててある玄関の辺りでいじめているんだろうか、などと情景が思い浮かぶ。


異国とはうすむらさきの大旦   月野ぽぽな

「異国」はどこだろうか? ヨーロッパ? インド? アゼルバイジャン? いやいや、「異国」は「異国」であり、この句ではそれ以外にその土地に名をつける必要はない。「うすむらさきの大旦」をしみじみ見つめながら、そこは「異国」だと感じている彼の思いに寄り添えれば、それで良い。自分の生まれた地からあまりに遠い、異国。その地で迎える新年のうすむらさきの朝焼け。淋しさとか、希望とか、あれこれあるだろうけれども、とにかく一人で異国の地に立っている、ということが大事なのだ。


工場の裏も七福神巡り   中田八十八

「工場の裏」などという薄汚れた場所での七福神めぐり。俗の中にある聖を見出すことで詩が生まれている。それも、取り澄ました「聖」ではなく、商売の神様などの庶民に身近な七福神だからこそ、生活感が出ている。廃液のにおい、日の射さぬ路地、汚い洗濯物、その中を、笑い合う一団が過ぎてゆく。


仏壇にBARの燐寸や去年今年   三浦 郁

仏壇はとても綺麗にしてあったとしても、燐寸はいい加減なものを使うことが多い。それにしてもBARの燐寸とは。仏教の世界に全然そぐわないものが仏壇の中に一点だけ紛れ込んでいる、そこにその家の主人の生活が垣間見える。飲んだくれて帰ってきても、しみじみと仏壇に手を合わせる時間が必ずあるのだ。普段の暮らしの一断片に過ぎないシーンだからこそ、「去年今年」という特別な時間を表す季語が似つかわしい。


注連縄を使い回して拝みけり   宮﨑二健

「使い回して」は、ご近所さん同士で使いまわしているということ……とは考えづらいので、去年のものをまた引っ張り出してきて、ということだろうか。「使い回して」いる割に、きっちり拝む辺りが人間くさい。


御降をいびつに流すすべり台   渡戸 舫

お正月、という季節にまとわりついたイメージを全て無視したような句だ。おめでたくもないし、一年の始まりのちょっとした高揚感もない。普通、こういう句は「季語が動く」と言われそうに思う。「御降」でなくても、「秋雨」でも「春雨」でも句自体は成り立ちうる。でも、やっぱり「御降」が面白いのは、結局のところ、この句がお正月のイメージを、「裏切る」という形で利用しているからではないか。一年の始まりにも関わらず、雨の中の「いびつ」な滑り台を見ている彼。他に行くところはなかったのか? 他に見るものはなかったのか? 「いびつ」から感じてしまう鬱屈したイメージ、行き止まりの感情。こんなものの何が面白いのだろう、と思いながら滑り台を見続けているかもしれない彼のとなりで、我々も、そこにどうしようもなく存在してしまっている滑り台を、見つめ続けている。


新年詠(2)

あげたき子あげたくなき子お年玉   熊倉仔房

何もそんなはっきり言わなくても……という句ではあるが、そこが魅力。言葉にしないどころか、顔にも出しはしないが、やはり大人から見て子供はみんなかわいいとは言えないこともある。それでも大人は、にこやかに子供みんなにお年玉をあげるのだ(大人ですから)。「あげたき子」「あげたくなき子」という、もたついたリズムが、お年玉を渡す側の逡巡を思わせる。


初富士や丈の短き体操着   近 恵

一読、かなり驚かされた。「初富士」と「体操着」の取り合わせだなんて、聞いたこともない。しかし、「丈の短き体操着」という把握は手堅く体操着の様子を写し取っている。体操着から出ている長くて白い手足がぱたぱたと運動場をいっぱいに駆け回る。その背後に決して動かない富士山が大きく構えている様子を思い浮かべたら、決してむちゃくちゃな配合ではないんだな、と納得がいった。実に悠々として、気持ちの良い句だ。


獅子舞のあとの塵浮く日差しかな   村上鞆彦

やわらかな日差しの中にかがやく塵は、汚いもののはずなのに、なぜかとても美しく感じる。獅子舞を終えた後という「動」のあとの「静」を描いているのも、効果的だ。骨格正しく、美しく、こまやかに、しかも五感をくすぐる句である。「あとの」だけ平仮名で、それ以外の名詞・動詞に漢字が使われているのも、句を美しく立たせるための配慮であろう。

 

豚と血の繫がるものに雪うさぎ   二輪 通

雪うさぎが本当に豚と血がつながっているのか、とか、もしも本当に血がつながっているとして(いや、そんなわけないのだが)、それがどういう詩的想像力を刺激するのか、とか、そういうことは一切抜きにして、作者の妄想の底力に一票を投ずる。俳句の鑑賞の仕方として、そこに描かれている景色や情感を読み取る、ということ以外に、作者の視線や発想を面白がる、という鑑賞の方法があってよいと思っているのだが、この句などは、その典型だと思う。どうして雪うさぎが豚と血がつながっているなんて思っちゃったのだろうか、この人は。雪うさぎを見てさえ、豚のことを思い出してしまうとでも言うのだろうか。なぞだ。

遠火事や豚は逆上がりの最中

遠火事の火が、逆上がりする豚の背中に照っている。豚は自らの体重に苦戦しながらどうにかこうにか逆上がりしようともがいている。豚もいろいろ大変なのだ。この句に描かれたシュールで奇妙なこの一瞬は、「最中」という措辞によって永遠にこのままで固まってしまっているかのように思える。遠火事はいつまでも燃え続け、豚は永遠に逆上がりの途中でもがいている。この風景はどこにも向かわない。どんな情感も、どんな叙情も、どんな教訓も生まない。まるでシュールな絵を見ているようだ。豚は、漫画のように戯画化されたものではなく、リアルでかわいらしさの欠片もない胴長の豚が描かれていると思い浮かべたい。

 

手影絵の鯨を祖父に持ち帰る   興梠 隆

持ち帰れないものを「持ち帰る」と言うことで、手影絵の非実在性が強調される。鯨の手影絵の手の格好のまま祖父のいる家に帰ってきた、というふうには読みたくなくて、本当に、手影絵の鯨を持って帰ったと読みたい。祖父は、昔、やはり鯨肉を常食にしていただろうか。祖父の中の鯨肉の思い出と重なってくるように感じるから、手影絵の鯨が本物の鯨でなくても、この「鯨」は季語として機能していると読んでいいように思う(必ずしも季語がなければならないと言うわけでもないけれども)。

フレームに棘百万を育たしめ

しずしずと育ちゆく百万の棘、その中で彼は何を思い描くのだろうか。寒い冬景色の中、このフレームの中だけが暖かい、そしてその暖かな場所で育てているのが、百万の棘だなんて。育ちゆく棘たちを愁い顔で見送った彼は、棘が育ちきったそのときもやはりため息を洩らすだろう。憂愁も極まれば恍惚となるのだ。花ではなく棘を育てたのだという認識には、美しい徒労感すら覚える。

 

東京は西に山なす新酒かな   広渡敬雄

「東京は西に山なす」は誰もが納得する発見だ。しかも、それは東京都の形を言いとめているだけで、だからどうした、というくらいの軽い発見。そこに「新酒」という思いがけない季語が付けられることで、東京の多摩の山深さがどことなく思われる。「ここも東京都なのか」と驚きながら、灯の少ない村の居酒屋で新酒を飲んでいる。それは都心で味わうよりもどこか強い香りを放つようだ。「東京」を詠んでこんなに田舎くさい句は今まで僕は見たことがない。その一点だけでも、価値のある句であろう。



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