俳枕 山中湖・赤富士と富安風生
広渡敬雄
山中湖は、富士五湖で最大。
海抜982メートルのため、冬期には、東岸が凍結し、氷上の公魚釣で名高い。夏は絶好の避暑地となり、暑さを避けて、夜間に富士山頂を目指す登山者の延々と連なるライトが湖畔から見られる。
ここを含めて山梨側から見る富士の姿は、静岡側から見る「表富士」に対し、「裏富士」と呼ばれ、端整である。
又、晩夏から初秋にかけ、雲や霧の影響で富士の肌を朝日が赤く染め「赤富士」と呼ばれるが、これは、富安風生の次の句によって新季語となった。
赤富士の露滂沱たる四辺かな 富安風生
梅雨富士の黒い三角兄死ぬか 西東三鬼
裏富士の月夜の空を黄金虫 飯田龍太
富士朱し暁ひぐらしのやみてのち 黒田杏子
赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
富安風生は、本名謙次。明治18年愛知県八名郡金沢村(現豊川市)の旧家に生まれ、一高、東大を経て、逓信省に入り、四年間結核で故郷に戻るも、復省。
33歳で福岡貯金局長時代に吉岡禅寺洞の「天の川」同人となり、俳人としての遅いスタートを切った。大正8年には、たまたま福岡に来た高浜虚子と出会い、ホトトギスに投句開始。官僚としては、逓信省次官まで登りつめ、退官後も各種要職を歴任した。
逓信省の俳誌を継承し「若葉」主宰。又ホトトギスの代表的俳人として、軽妙で判り易く誰にでも親しめる、繊細で洒脱な句風で俳句の大衆化を進めた。
日常些事や草木・小動物への細やかな愛情の句も多く、全国に広がる句碑の数に圧倒される。
代表句「まさをなる空よりしだれざくらかな」(市川市弘法寺)は、絵画でも専門肌だった風生の構図のよさ、簡略化、テーマの絞りが具体化された作品ともいえよう。
若い時の大病の養生のため、昭和24年頃から、30年に亘り、毎夏を山中湖で過ごした。山中湖の夏稽古会(虚子の老柳山荘)での交流から、「風生と死の話して涼しさよ」の虚子の傑作が生まれたが(昭32)、これも、風生の悠然たる人物の大きさのなせるものだろう。
この稽古会に参加した深見けん二は「去り難な銀河夜々濃くなると聞くに」を後日自らの収穫句とあげている。
湖畔の「文学の森公園」の一角に「風生庵」がある。村内の江戸時代後期の旧家を移築し、風生の遺族から提供された、都内の風生の書斎並びに有名な豪華色紙本「富士百句」や他の色紙、短冊、掛軸に加え風生の愛蔵品が展示されており、俳人風生の全貌を知ることが出来る。洒脱で稚気のある「大人」の俳人風生は、昭和54年2月、93歳の天寿を全うした。
みちのくの伊達の郡の春田かな
何もかも知つてをるなり竃猫
街の雨鶯餅はもう出たか
よろこべばしきり落つる木の実かな
こときれてなほ邯鄲のうすみどり
赤富士に露の満天満地かな (風生館・句碑)
万歳の三河の国へ帰省かな
小鳥来て午後の紅茶のほしきころ
●
0 comments:
コメントを投稿