中村苑子遠望
晩年の桃
松下カロ
翁かの桃の遊びをせむと言ふ 『水妖詞館』
中村苑子の作品のなかで、もっとも知られている句のひとつでしょう。
25年に及ぶ句作を凝縮させて編まれた中村苑子の第一句集『水妖詞館』は1975年、世に問われています。その中でも、「翁」の句は、俳人にとって、自他共に認める大事な作品であったようです。
自分の心の中で、いまだにこの句が古びていないことだけは確かだといえる。もはや過ぎ去った多くの自分の句に、いささかの未練も愛情も持たない私としては珍しい事例の句である。 (中村苑子著『俳句自在』角川書店1994年刊)
ストイックな作句態度を貫いた俳人としては珍しい自賛の言葉。
「遊びをせん」。言うまでもなく平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』を代表する「今様」 (12世紀当時の流行歌)の一説です。『梁塵秘抄』に遺された歌の多くは、「法文歌」と呼ばれる宗教的な歌であると言われていますが、今も私達の心に訴えて止まないのは、庶民に口ずさまれていた「遊びうた」、歌謡の数々でしょう。そこには現代人のメンタルにも重なる優しい言葉遣いがあります。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそゆるがるれ
後半は、和歌、俳句とも繋がる七五七五のリズムが耳に快く響きます。無邪気な子供を詠ったとも、傀儡師や遊女に歌われていた「戯れうた」であったとも。「遊び」は「遊び女」に通ずるとの説もあります。
翁の句には、この有名な今様の最初の部分「遊びをせん」がそのまま使われています。苑子句では「遊びをせむ」ですが、「ん」も「む」も意味は同じ推量、及び意志の助動詞「む」の活用形です。
だれもが『梁塵秘抄』を思い出すことは計算の上でしょう。
オリジナリティーを求めず、よく知られているフレーズを置いたのは、どんな意図からでしょうか。苑子は、こうも書いています。
この句が私の中で古びていないと前に書いたが、それはこの句が何の意味も持たないからだと思う。(『俳句自在』)
如何様にも受け取ることの出来る「含み」のある文章です。
俳句の世界でも昨今、遅ればせながら、「著作権」が論じられ、また、評論、散文においてもオリジナリティーをたどるのは、難しいこととなりつつあります。ネット社会ではなおのことです。
中村苑子は「皆が知っている」古典作品の導入部を大胆に用いて、「さらなる創作」ともいえる独自の句世界を作り上げていると言えましょう。
900年の時を経てなお、私達日本人の記憶の底に遠い潮騒のように繰り返し鳴り響いている「遊びをせん」のリフレイン。自分の言葉は敢えて捨て、この悠久の一説を信じて、一句を託した俳人の選択は正しかったようです。
さて、では、翁とは誰か。
中村苑子最後の句集『花隠れ』によせた解説「中村苑子とつおいつ」のなかで、大岡信は、「翁」について、こう述べています。
翁が、たとえば光源氏晩年の枯れた姿だったとしても、一向に違和感がないではないか。
晩節を汚す、という言葉があります。
老年を生きるのは難しいことです。
数々の恋愛、政争の渦中に身を置き、自らの運命を摑み取ってきた光源氏。晩年、といっても当時のこと、四十代でしょう、彼は栄華の絶頂にありました。母違いの弟、という体面ではありますが、実は源氏の息子である冷泉帝が即位し、源氏自身は准汰上天皇、政治の最高権力者に上り詰めていたのです。私生活では糟糠の妻ともいうべき紫の上との理想的な関係。
しかしここでめでたしめでたしとはいかないところが人生の厳しさか。退位した前帝朱雀院(源氏の兄)が頻りに女三の宮(院の三女)のゆくすえを案じ、誰か良い婿はいないものか、と相談されるうち、ついそれなら私が……と口走ってしまうのです。長く苦楽を共にしてきた紫の上は出身の門地が低かったため、あくまで源氏に庇護されているという立場にあり、正妻とは認められていなかったのです。内親王との婚姻は政治的にも意味があります。叔父と姪のカップルも珍しいことではありませんでした。
お兄様から頼まれてしまって・・・などとごまかしながらも初老の男は落ち着きません。14歳という花嫁の年齢に含羞しながら、ふっと滲んでくる薄笑い。聞き分けの良い紫の上が、「わたくしは別に・・・」などと従順でプライドのある分別をみせると、「あ、いや、本当に形ばかりのことなのですよ」としどろもどろです。幾つになっても男というものは・・・。
ところで、『梁塵秘抄』を編纂したのは後白河院。平安末期、権力が武士階級へと移行して行く時勢下、どこまでも「皇権」に執着した稀代の上皇です。『源氏物語』よりも少し下った時代ですが、『源氏』のモデルと言われている藤原道長にも匹敵する個性と権勢を持っていた人物でした。道長も上皇もその生涯は波乱と恋に満ちています。
翁かの桃の遊びをせむと言ふ
「翁」の後に、連体詞「かの」をドンピシャリの間合いで差込み、隙のない完璧な上五。あとは流れるように「桃の遊びをせむと言ふ」。余韻を残しながら、もたつかず、無駄がありません。
「かの」が意味深長です。
翁来て桃の遊びをせむと言ふ
であったとしたら、優しいおじいちゃんが孫娘に「遊んであげようね」と言っているだけのことになってしまうでしょう。
桃。遊び。「かの」という言葉遣い。王朝が匂ってきます。上品ですがいやらしい。器量と権謀を尽くして全てを奪い取ってきた男が今、細い一本の桃の枝をほしがっています。そんな源氏のこころの内側を覗きこんだような、退廃と自嘲、やるせなさを隠した翁の句。
親子、いや、孫と言ってもいいほどの年齢差のある皇女、女三の宮を、光源氏は正妻として迎えます。紫の上の失意。悲劇は欲望から生まれるのでしょうか。
初読の折、この句に咲き誇る桃の花の匂いを感じました。もう盛りは過ぎて、少し萎え始めた桃花の印象もありました。典雅な雛飾。まだ人形のような身体に振袖を纏った少女たち。あるいは彼女たちの声が、どこか遠くから聞こえてくるばかりで、人気のなくなった雛の間。老人はどこへ行けば良いのでしょう。春は更けて残り僅か。しておかねばならない事、遣り残したことはたくさんあるというのに、もう時間がありません。・・・翁の句は春の中にあると思い込んでいたのです。
しかし多くの読者は、この句に「桃の実」をイメージするようです。句はよりはっきりと性的意味合いをもつようになると同時に、季節は秋、万物が衰え初める時期に翁の存在を重ねる、という鑑賞です。この読み方も、こっくりと句を楽しむよすがとなるでしょう。苑子自身も、後に「桃の実」であると言っています。
「桃=春」と受け取ってしまった理由は何だったのか、「遊び」が雛祭に重なったこと、また「翁」の気持が少しも「老いた」ものでなく、むしろ「遊び」を誘われている童女よりも無邪気な雰囲気を持っているため、やわらかな春以外の季節は考えられなくなってしまったのかもしれません。この「はやとちり」は、今もって尾を引き、「翁の句」に爛漫と咲きみちた桃花を連想してしまう癖は、なおりそうにありません。
俳人は桃を、そして桃花を愛しました。桜も大好きで、庭に丹精していたということですが、桃は様々な角度から眺め、あらゆる言葉と組み合わせ、桃の持っている可能性を引き出すことを、しんから楽しんでいたようです。出来上がった句も、ヴァラエティーに富んでいます。
桃の世へ洞窟を出でて水奔る 『水妖詞館』
わらわらと影踏む童子桃岬
桃のなか別の昔が夕焼けて 『花狩』
桃散つて夢のあとさき狂ひけり 『吟遊』
様々な心映えが託された「桃」。
桃の花は桜より色も濃く、また、いつまでも枝に残って汚れてゆく有様は桜のように潔くはありません。ちょっと女々しい感じが俳人には面白かったのでしょう。これら桃の句たちも、「桃花」なのか、「桃の実」であるのか、そのどちらと受け取るかで、物語が微妙に揺れ動くのも、興味深いところです。
桃のなか別の昔が夕焼けて
は、いかにも「桃の実」の中、と思われますが、句集『花狩』中、この周辺は春の句ばかりです。「桃林の中」と意図していたのでしょうか。桃花を見ては桃の実を思い、実を見ては、花を思っていたのかも知れません。
翁かの桃の遊びをせむと言ふ
『俳句自在』には、さらに、この句の核心に触れた述懐も記載されています。
「翁と桃」のそもそもの発端は、苑子が俳人永田耕衣宅で偶々目にした木彫の仏像 (円空仏か) に、「美しい形の桃が一つ供えられていた」のを見た時の感動でした。顔も定かでない仏像と桃の組み合わせが、後年、「翁と桃」に繋がった、とも俳人は述べています。
古い仏像と桃の実の肉感的な艶が、――中略――私の心の海に沈んでいて、上掲の句を生む契機となったのかもしれない。(『俳句自在』)
「翁」の出自は小さな円空仏であったのです。しかし、「翁」を、つい晩年の永田耕衣のイメージに置き換えてしまうのは、また私の「はやとちり」でしょうか・・・。
夫に先立たれた苑子は戦争中、「鎌倉文庫」に勤めていました。戦時下、作家達がボランティアのように営んでいた貸し本屋です。鎌倉在住の高見順、川端康成にも知遇を得ます。うら若い未亡人苑子に作家たちはあたたかい手をさしのべてくれたようです。翁の句には川端の『眠れる美女』の面影も感じられます。文豪晩年の傑作です。命終も近い老人が睡眠薬で眠らせた少女を弄ぶ・・・。倒錯した文章の美しさ。執筆中川端自身も睡眠薬に依存していました。
永田耕衣、川端康成、この圧倒的な「晩年」たち。
源氏晩年の結婚は不幸に終わります。
子供のような妻に失望する身勝手な源氏。女三の宮にとっても源氏は威圧的に感じられるばかり。裏切られた紫の上は病に倒れ、男は四面楚歌です。身から出た錆、とはいえ気の毒なこと。若い妻は貴公子柏木との恋に走り、やがて不義の子が生まれます。『宇治十帖』の主人公薫です。男の愚かさと恋着から、『源氏物語』の次世代がうまれ、愛憎の潮流は連綿と続いて行くこととなるのです。
桃の遊びの代償は高いものでした。同時にかけがえのない最後の「遊び」であったのかも知れません。
翁の句には老いた男の焦り、平穏な晩年を投げ捨てる意地と美学が内在しています。
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2009-02-22
中村苑子遠望 晩年の桃 松下カロ
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