林田紀音夫全句集拾読 059
野口 裕
雪片の夜は街燈の域に降る
昭和六十二年、「海程」発表句。あえて改悪してみると、「雪は夜の街燈照らす域に降り」。何かが決定的に壊れてしまう。「雪」ではなく、降るのは「雪片」。「雪片」ばかりでなく、夜も街燈の域に降らなければならないのだ。
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風走る木の葉の葉五月は過ぎ
昭和六十二年、「海程」発表句。五五六の特異なリズム。「このはのは」が気持ちよい。作者は、「五月は過ぎ」に憂鬱を込めたかもしれないが、このリズムはなんとなく憂鬱を吹き飛ばしてくれる。
青空が見え漂着の哺乳瓶
昭和六十二年、「海程」発表句。青空と水際の哺乳瓶。現実の景なら、句の視線は前半と後半で入れ替わることになるが、「見え」と強調されると、読者の視線は上空に貼りついたまま、青空に漂着する不思議な哺乳瓶が見えてくる。幼くして失われた生命を回想しているか。
葉拓にまた新しい日の傷み
昭和六十二年、「海程」発表句。紙に写し取った葉脈。光合成しない生命のレプリカにとって、日の光は容赦ない。
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ぶらんこの天へ出て行く音しきり
胸の手のいつにはじまる明るい午睡
昭和六十二年、「海程」発表句。昭和六十年、「海程」発表句に同一句あり。こんなこともある。
映画の椅子に沈めて遠い日のときめき
昭和六十三年、「海程」発表句。「映画の椅子に(身を)沈めて」と即断できないのが、紀音夫句の構造。沈めるのは、「遠い日」かもしれないし、「ときめき」かもしれない。映画の闇の中に過去の追憶を見ているのか、あるいは外界に降りそそいでいるはずの日の光に背を向けている自己を見つめているのか。七七六の異調が困惑をさらに深める。
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雪片のまた身に絡む流刻か
珈琲にその上空が雪もたらす
夜がそこに来ている雨のたちくらみ
遠望の海そのときは手が遊ぶ
水色の日暮れまた来るたなごころ
陸橋に雨の糸そのさびしさを頒つ
昭和六十三年、「海程」発表句。このあたりの紀音夫句、「また」、「その」、「そこ」などの多用が目立つ。発表三十句中、これだけある。「天が下に新しいものなく」、既視感がこうした語を発せしめるのだろう。最終句、第二句集の「滞る血のかなしさを硝子に頒つ」となんと似ていることか。
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