大時計 村田 篠
仕事から歩いて帰る朧かな
スイッチを切り春雪の窓になる
道草の少年と見し初桜
芽柳やエンジンの音はじまつて
遅き日のひとの集まる大時計
子どもの頃から屋上好きで、学校とかデパートとか、屋上のある建物にいると、つい上がりたくなってしまう。エレベーターに乗ってそのまま行ってしまうわけだけれど、そういうとき、こころなしか人目を避けたい気分になる。屋上というのがそういう場所なのかもしれない。
最近はもっぱら、職場のビルの屋上へ行く。空やら下界やらをしばらく眺めていたら、不思議なほど気持ちが晴れ渡る。それをこの間、若い同僚に話したら「あ、ときどきいないと思ったら、そんなところへ行ってたんですか」と責められた。すみません。でも、やっぱり屋上って「そんなところ」と言われてしまう場所なんだよなあ、と思う。
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四角っぽい 上田信治
その人は紙風船を突きながら
田園の食卓にある田螺かな
孕み猫午後とも午前ともつかぬ
塩豆と昆布のかけらと春の星
四月馬鹿缶に残れるシリカゲル
「したがって、ある思いつきというのは、たとえば死にかけた馬をつかってすべてがちぐはぐに運ばれようとも、それが何かを動かす以上はよい思いつきなのだ。したがって、こうした種類の思いつきというのは、万事が痛ましい失敗に終わろうと、そのときはそのときで少なくとも、自分たちのうかべる考えはろくでもないものだと思いつづけているうちは絶対に起こらないような、果断な処置をとる気が起こることもあるのだから、つねによい思いつきとなるわけだ」(M・デュラス『太平洋の防波堤』)
ほんとうにそうだと思う。さいばら天気さんに、満腔の敬意と感謝を。
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余 白 さいばら天気
龍天に登るをあふぎ教授陣
七曜をたゆたふ春の金魚かな
幾何学の余白に花粉飛んで来し
春昼の卵のなかの無重力
論文は紙縒で綴ぢて黄のてふてふ
一〇〇号というと大層なことのように見えて、期間にすればまだ二年にも満たない。この手のものを続けることは誰にでも容易い作業だけれど、それも、ひとりだとつまらない。あるときふと思いついてしまったこの「週刊俳句」が第一〇〇号を迎える今、上田信治、村田篠両氏の存在は、私にとって心強いと同時に心安らぐこと、いわば慰安に近い。多くの書き手の存在、多くの読者の存在にも同じことがいえる。
窓のない部屋は、息が詰まる。「週刊俳句」は、窓のようなものだと、今朝、思った。明日になれば違う譬えを思うかもしれないが、風が入り、日射しが入り、空や道や木々が見え、そこを行き交う人が見える――。そんな感じ。マイクロソフト社の商標とカブってしまうのがちょっと癪だけれど。
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2009-03-22
五句テキスト06
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