林田紀音夫全句集拾読 060
野口 裕
飯粒のざわざわと春過ぎてゆく
平成元年、「海程」発表句。紀音夫はよく仏事を取りあげるので、「ざわざわ」は仏飯の乾燥した状態からの連想かとも思える。しかし、句をこのようにまとめてしまうと関係なくなる。当然、にぎやかな食事風景を思い浮かべてもよい。しかし、食を表現する言葉として「飯粒」と置かれているところ、そうした連想を裏切る。いずれにしろ、通り過ぎてゆく春は言い得ない諸々を含んでいる。
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肉食の午後窓ガラス雨流す
平成元年、「海程」発表句。一見では、ほとんど作意が分からない句。手がかりとなるのは、晩餐ではない「肉食」か。時あたかも飽食の時代。過去を忘れたかのように自身もその中にいる。かつて「滞る血のかなしさを硝子に頒つ」と書いた作者が、ぶっきらぼうに「ガラス」と書き、分からないならスルーして良い、とパッシングのサインのように響かせる。
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鴉啼き過ぎて囚徒に歩幅似る
平成元年、「海程」発表句。鴉が看守になる。鴉に預けた我が罪は…。そんなことを考えながら歩いてゆくと、ますます歩幅は囚徒に似てくる。
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手花火におくれて誰の手か加わる
平成元年、「海程」発表句。軽い写生句、ちょっとした見聞からできているように見える。とは言えど、作者の世界に対する違和感は十分表れている。
葉脈の氾濫軽く眩暈して
平成元年、「海程」発表句。「葉脈の氾濫」は、不可解かつ魅力ある語句。以下がそれの説明に落ち込んだ。なんだか惜しいな、と感じる。
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影のない弔旗の街を歩きだす
現れて三日月何時の悲しみか
遠景に海のひろがるその墓域
寂寥の鉛を嚥んで海昏れる
平成二年、「海程」発表句。ずいぶんとタイムラグがあるようだが、これが林田紀音夫流の昭和への惜別の辞であろう。昭和三十五年の浅沼稲次郎暗殺事件のおりには、すぐに句の発表が行われたが、この頃になると、ひとつの事件に対する句の発表に、かなりの時間差が生じている。そう考える根拠は、かなり後で論じるつもりだが、阪神淡路大震災についての句の発表時期が同様の傾向にあるからだ。
これらの句の中では、やはり一句目が印象に残る。「影のない」が「弔旗」にも「街」にもかかり、昭和という時代とその終焉への批評となり得ている。
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