2009-03-01

『俳句界』2009年3月号を読む さいばら天気

〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年3月号を読む

さいばら天気


特集 若手主宰の登場を渇望する p29-

「誰が渇望しているのだろう?」という疑問がまず頭をもたげます。

特集トビラのリード文、「(…)新しい俳句が生まれたとき、そこには必ず若い才能があった。若い才能の登場無しに俳句の進化はない。若き主宰の登場こそ、今の俳壇の急務なのだ」からすると、渇望しているのは「俳句界」という雑誌なのでしょうか。あるいは、俳句世間の「総意」の反映という側面も持っているのでしょうか。ジャーナリズムの常として、総意(世の中の空気、民意等々)とみずからの言説を、意識的・無意識的に重ね合わせる(混同する)ところがあるので、ちょっとややこしい。

「渇望の主」の在処が、私にはとてもわかりにくく(少なくとも私にはそんな渇望はこれぽっちもないので、よけいです)、それゆえこの特集に収められた2つの記事の内容がいまひとつアタマに入ってきません。

座談会 若き主宰はなぜ生まれないのか~若い世代と結社との関係:今井聖・上田日差子・酒井佐忠・能村研三」では、「なぜ」に対して、おおまかに2つの解答が導かれます。ひとつは、俳句以外に仕事やら家庭やら、いろいろ忙しいから(これは実際そうでしょう)。もうひとつは、今井氏が強く指摘する若い世代の「修業」忌避感。

今井 (…)要するに師弟制度(…)の理不尽さが若い世代に抵抗があるんじゃないか。

今井 (…)そんな面倒臭い結社に行くより、好きな俳人と一対一の関係を結べばいい。

結社に入らず、作家と個人的師弟関係を結ぶ若者が、数としてそれほど多いとは思えませんが、「若者の結社離れ」の背景として印象的な出来事なのでしょう。このことは他の座談会でもしばしば話題にのぼります。今井氏は、ちょっと皮肉に捉えていらっしゃるようです。

今井 たまたまかもしれないけれど、若い人が私淑している人が非常に時流に乗った人だったりすると、その人の作品に本当に惚れているというよりも、ちゃんと時流を見ているなということを考えてしまう。

今井 (若い人が師と)一対一の関係で上手く立ち回っても、最終的には自分の結社を作りたいと思ってるんではないかな。(…)今、結社を否定している人も、ゆくゆくは自分の結社を作りたいと思っているんじゃないかな。

ま、そういう生臭い野心を持った若者も、なかにはいるみたいだ、と私も思います。けれども、ほとんどの若者は、俳句をどう楽しむか、自分が俳句とどう関わっていくのかを、誠実に健全に熟慮しているだけなのだ、とも思います(若者に限らないけれど)。

そこに「結社に入るのか、入らないのか」と性急に二者択一を迫るのは、どうなんですか、それって、という感じですし、「出でよ、若い主宰!」と言われても、「じゃあ、私が」と一歩前に踏み出す若者はきっと多くはなく、ほとんど場合、「へ? なに、それ?」といったところじゃないでしょうか。

と、私のふわっとした印象はさておき、ムーブメント(文芸運動)の関わりにも、座談の話題が及び、これはこれでまた本質的かつ困難な問題です。

酒井 (…)結社とは一つのムーブメントだったのではないか。そして(…)時代とともに少しずつ変化してゆき、やがてムーブメントとしての必然性が無くなってゆくわけです。(…)多様化のなかで、結社誌が文学理念を保つことが非常に難しくなってきている。

そのへんは俳句だけの事情ではなく、となると、一般論へと拡散してしまいます。その意味でも困難。

 

このところ、若者と結社のことが頻繁に話題になります〔*1〕。高校生から大学生、また20代に、今は俳句人材が豊富なのでしょう。結社としては、彼らを取り込む、というと言葉が悪いですね。受け皿になる、とか? ともかく若い才能と良き関係を築きたいということなのでしょう。

そんなこんなな目下のところの俳句世間の風潮ですが、若い人は、ゆったり構えればいいのでは? 俳句はどこにも逃げてゆかないし、結社もとうぶんは消えてなくならない。

急いでいる人、焦っている人がいるとしたら、それは、残された時間が少ないお年寄りでしょう。若い人にはまだたっぷり時間があるのだから、焦ることはありません。

それと、もっとだいじなことは、俳句以外にも、やることがたくさんあることです(これは若者に限りませんが)。

〔*1〕関連記事 さいばら天気:「俳句結社」論議あれこれ〔上〕〔中〕〔下〕 inウラハイ=裏「週刊俳句」
http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_07.html
http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_08.html
http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_09.html

魅惑の俳人たち15 穴井太 p81-

アルバム、句セレクション、略年譜のあと、福本弘明、佐藤文子、岸本マチ子各氏の追想文。とりわけ岸本氏の挙げるエピソード(最初の出会い)が、穴井太のキャラクターの面白さをよく伝え、興味深い。


俳句界時評 俳句は文化である 坂口昌弘 p150-

副題に「総合誌の回顧と展望を考える」とあるように、昨年末から今年初めにかけて、俳句総合誌各誌で展開された回顧記事、展望記事を俯瞰。後半で、「俳句」2009年1月号「俳句の未来予想図」〔*2〕を取り上げ、そこでの発言「俳句を文化にしてはいけない」に対して、やや婉曲な筆致をもって「俳句は文化である」と反駁。

俳句が文化か、文化にしてはいけないものか、について、ここで何かを言うつもりはありません。ただ、こうした話題を目にするたびに、文脈・脈絡(コンテクスト)を無視/誤解しての議論の不毛を思います。

ここからは一般論になりますが、「文化」という語は、きわめて多義的・多層的で、語の置かれたコンテクストを無視して読むと、とてもトンチンカンなことになります。

おそらくもっとも広い意味では、自然(nature)と対置される文化(culture)。上記記事で坂口氏も小林秀雄を引いて説明されているように、カルチャーは「耕す」(英語ではcultivate に派生)に由来する概念語です。

広義の「文化」は、「人間にまつわることのうち生物学的要素を除くすべて」と言い換えることもできるでしょう。例えば、風邪のときの発熱は「文化」ではありませんが、おでこに手をあてて熱の具合を見るそぶりは「文化」です。鰐の生息そのものは「自然」ですが、それをトーテムとする人々の観念、あるいは、鰐を守るべき動物種と考えることは「文化」です。宇宙の存在は「自然」ですが、物理を考えること、工場でロケットを組み立てることもは「文化」です。

広い意味の文化には、言語も儀礼も産業も社会システムも犯罪も文芸も、すべて含まれます(当たり前のことをくどくど申し上げて恐縮)。

ところが、日本語で、例えば「文化包丁」「文化住宅」「重要文化財」「文化人」「企業文化」とさまざまに用いられる「文化」の語は、それぞれに異なる意味、異なるコンテクストを持っています(文化住宅などは「文明化」の意味合いが強く、カルチャーはほとんどないですよね)。

同じ「文化」の二文字でも別の意味、別のコンテクストで用いられることが多い。例えば、文化包丁の話をしている人に、その「文化」はレヴィ=ストロースほかでおなじみの「自然との二項対立」とどう関係があるのかと訊いても、「なんじゃ、それ?」です。

くだんの発言、「俳句を文化にしてはいけない」は、お茶やお花といった習い事というコンテクストに置かれたもので、ごくごく当たり前のことが述べられているに過ぎず、さしたる議論を生むようなものではありません。

「俳句は文化である」もまたごくごく当たり前のことです。俳句や言語が「自然(nature)」であるはずがない。

ですから、「俳句は文化であってはならない」と「俳句は文化である」は、どちらも当たり前のことで、対置あるいは反論として置かれるものではないわけです。ふたつの言辞のあいだに議論が起こることはあり得ません。それぞれコンテクストが異なるのですから。

ぐだぐだ長くなりましたが、「文化」という語には気をつけなくちゃね、それと、コンテクストって大事よね、という話でした。




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2 コメント:

高山れおな さんのコメント...

さいばら天気様

「俳句」1月号の座談会における小生と神野紗希の発言に関する御説は、まったくその通りでしょう。あの発言は、この程度の文脈を読み取る言語力さえない人たちを炙り出すという、意図せざる効果を持ったようです。それにしても同じ雑誌の同じ時評を担当する前任者が林桂で、後任が坂口昌弘とは何やら信じがたい光景。とんだ株式市場大暴落です。

tenki さんのコメント...

高山さん、こんばんは。

記事について書いたもので、
書き手については何も述べませんが、
文脈をはきちがえることのないように、
と自戒を込めて。

それと、話題は逸れますが、
俳句と「文化」にまつわる
おもしろいテーマがありそうです。
これはまあ「無形文化財」的な文脈で。