2009-04-19

林田紀音夫全句集拾読 064 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
064





野口 裕





雨走る日々に軽禁のガラス戸に

平成六年、「海程」発表句。「軽金=アルミ」なら話は簡単だが、「軽禁」である。「軽薄短小」時代のまっただ中にある違和感をこのような語で表しているのだろう。成功しているとは言い難いが。

 

鏡中に余命余震の鎖骨浮く

月明の余命かぞえる海の際

平成六年、「海程」発表句。同年には、三陸はるか沖地震が発生しているが、時期が年末だけにそれを発想の核にした句ではないだろう。前年七月十二日に発生した北海道南西沖地震をモデルにしていると思われる。このときの地震では、津波の被害が大きく、奥尻島が壊滅状態になった。

句としては、被災地での困難な状況を脳裏に描きつつ、遠く離れた場所での自身を省みる、という構造になっている。太平洋戦争後の、作者の困難な状況を胸に秘めていることはいうまでもないだろう。

作者自身が、阪神淡路大震災に遭遇するのは、次の年、平成七年のことになる。

 

シグナルの赤消え通夜へ足急ぐ

平成七年、「海程」発表句。「信号」と書いてしまうと、句が死ぬ。交通信号が交通信号以上の意味を持つからだ

 

西に雨雲孔雀の羽根も滅びるか

平成七年、「海程」発表句。ふとそう思った、ということなのだろう。ヒト以外の生命は何時滅びてもおかしくない、という気分を多くの人が共有している状況が句を成立させる。


風呂敷で包むものなく日を過ごす

平成七年、「海程」発表句。句意は二通りに解釈できよう。ひとつは、家でぼんやり過ごしている状態を、「風呂敷で包むものなく」と表現したとするもの。もうひとつは、かつては物を運ぶときには、なんでもかんでも風呂敷で持って行ったが、現在の身の回りにあるものを風呂敷で運ぶにはミスマッチすぎる。いま、私の身の回りにある物を見て、私は茫然自失としてしまう。と解釈するもの。

通常は、前者の解釈となるだろう。しかし、時代の変化についていけないという気分濃厚の紀音夫の句として、後者の解釈は捨てがたい。



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