2009-04-12

〔週俳第100号の俳句を読む〕浜いぶき いつもよりふかく息を

〔週俳第100号の俳句を読む〕
浜いぶき
いつもよりふかく息を


母のもの少し片づけさくらどき  久保山敦子

「少し」という副詞が、「母」がもうこの世にはいないことを暗示している。母ののこした衣類、装身具、本。そのほかのこまごまとした持ち物を、少しずつ整理していく。でも、いつか全て、ほんとうに片づけ終わってしまったら。窓へ向けた目に、さくらの花が映る。このさくらもやがては散り、散った花びらもいつしか掃き清められて、風景はまるで何ごともなかったように続きをはじめることを、作者は知っている。もしかしたら、それを分かっているから、「少し」しか片づけられないのかも知れない。

けれど、そのようなことは、どこにも書かれていない。その感傷の見えなさが、この句の美しさだと思う。

 

卒業の木々の匂ひのただよへる  鴇田智哉

「木々の匂ひ」という表現に、卒業期がまだ少し肌寒いことを思う。

「今のこの時間(瞬間)を、このさき何度も思い出すことになるだろう」と直観するとき、人は、いつもよりふかく息を吸い込む。そのとき屋外にいれば特に、周りの空気を大きく胸に吸い込むだろう。だから、(ほんとうは、木の芽が吹く頃は毎年同じ匂いがただよっているのだけれど、)学校を出るという時になって、卒業子はその匂いをさまざまな思いと共に「吸いこむ」のだ。

でも、この句ではあえて、「ただよへる」と言っている。自身の繊細な感覚の相違を否定するように、まるでいつも通りだよ、というように。そこに彼の門出への自覚と、その自覚に対するほんの少しの恥じらいがのぞくようで、面白い一句だと感じる。

 


芽柳やエンジンの音はじまつて  村田 篠

「予感」のある句。柳の芽が、成長してさみどりに細長く揺れ合う葉となる予感。エンジン音がはじまって、その音を低く続かせながら、バイクか、あるいは自動車が春のアスファルトを走り去っていく予感。その予感が達せられるまでのスパンには差があるし、植物と人工物という違いもあるけれど、どことなく長閑でひろびろとした空間のイメージのなかで、時間をかけてながく伸びていくはずの両者が心地よく響き合う。

「はじまって」という止め方は、句のなかで、そのふたつの予感を永遠のものとして昇華しているのかも知れない。



週刊俳句 第100号

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