〔週俳第100号の俳句を読む〕
山田露結
穴
叩かれて釘の頭や木の芽時 雪我狂流
「釘の頭」が自分の頭のことだとしたら、ずいぶんと自虐的ではある。打ち付けられてゆく「釘」とは対照的な「木の芽時」との取り合わせがキュートな一句。
集合に遅れて来たる春の服 浜いぶき
集合に遅れてくるのはいつも決まった人。遅れてきそうな人が予想通りに遅れてくる。でもまあ「春の服」だから許しましょう。これから楽しい旅がはじまりそう。
蛇出て蛇の穴ではなくなりぬ 中田八十八
なるほど、蛇がいなくなってしまえばもう蛇の穴ではない。言ってみれば蛇の穴の廃墟。そんな廃墟が春の野のあちこちに隠れているかと思うとちょっと楽しい。
しつしつとボクサーの息春の雪 中嶋憲武
試合前か、それとも試合後か。いずれにしても、少し淋し気なボクサーの息。春の雪は名残雪、雪の果。やっぱり、引退試合なんだろうなあ。
「帰れるんだ これでただの男に 帰れるんだ これで 帰れるんだ ライ ラ ライ ラ ライ・・・」(チャンピオン歌:アリス/ 詞:曲:谷村新司)
つちふれり長い話のをはるころ 鴇田智哉
「長い話」とは何か物語でも聞いていたのかもしれない。しかし、結局はどんな内容の話だったのか、どんな結末だったのかさえぼんやりとしたまま、話が終わるのと同時に語り部も消えてしまっているような摩訶不思議な感触。
口という穴覗かれて三鬼の忌 津田このみ
筆者の通っている歯科医院の先生は二十代の美人女医。彼女に口の中を覗かれていじくりまわされるのであれば、少々いたいのもガマン出来るというもの。
さて、三鬼ならどうか。三鬼は元歯科医。いかにもインチキ臭いやぶ医者といった雰囲気だ。三鬼が若い女性患者の口の中を覗いているのを想像するだけで何だか卑猥な感じがする。覗かれるのが口という「穴」だけで済めばよいのだが。
野遊びの始まつてゐる膝頭 茅根知子
もう外は春。
早く出かけたい。
早く出かけて春の日差しを浴びたい。無邪気に野を駆け回りたい。
膝頭が私に訴えている。
お水取見えぬところも東大寺 小池康生
東大寺修二会での一句。吟行で難しいのは、「見た」という事実に捕われ過ぎて、そこからなかなか発想の飛躍が出来なくなってしまうところ。ましてや東大寺の修二会のような荘厳な儀式であれば、「お水取り」を主役にした当たり前の句ばかりが出来てしまいそうである。掲句は「見えぬところ」に注目したところが巧み。写生句ってこんな風に作るんだなあと。
あそび女のやうにおたまのひるがへる 菊田一平
おたまがひるがえる様をあそび女に見立てたところが粋。他に「白梅や鯛のかたちの醤油差し」、「手まり麩に走るさみどり雪の果」などの句にも作者の感覚のよろしさが窺える。
育児書の頁に折り目日脚伸ぶ 小野裕三
子供は手がかかればかかるほど愛しいもの。
子供に必死で手をかけている。実はそんなときが一番幸せなんだと思う。
小児科、耳鼻科、皮膚科をハシゴして回ったりして。
作品とするには難しい、幸せな「子育て俳句」ではあるが...。
浴槽の捨てられてゐる海市かな 青山茂根
モノクロの写真作品のような一句。素材的にはかの「サバービア俳句」を彷彿とさせる。いわゆる俳句的な「ものに語らせる」やり方とは一味違う「もの」の見せ方。
道草の少年と見し初桜 村田 篠
「少年や六十年後の春の如し永田耕衣」ほど屈折してはいないが、作者は道草をしながら桜を眺めている少年に幼い頃の自分の姿を見ているのかもしれない。
花が咲きはじめたことを気にとめているくらいだから、繊細な少年なんだと思う。わんぱくなイタズラ坊主ではないだろう。
田園の食卓にある田螺かな 上田信治
「田園」という呼び方からは肥臭い田舎の風景ではなく、どこか寓話性を帯びた非日常的な世界を思い浮かべる。宮沢賢治のイーハトーブ?そういえば賢治がこよなく愛したベートーベンの交響曲は「田園」。
掲句では、決して泥臭い田螺が這っているのではなくて、田螺のエスカルゴが一皿、上品に食卓に上っているのだと思いたい。
春昼の卵のなかの無重力 さいばら天気
さて、卵の中は決して無重力ではないだろがこう言い切られるとそんな気もしてくる。割られる前の卵の中を思ったことはないが、黄身がまるで羊水の中の胎児のように無重力に近い状態で浮かんでいるのが見えてくる。「春昼」のぼんやり感が効果的。
≫ 週刊俳句 第100号
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2009-04-12
〔週俳第100号の俳句を読む〕山田露結 穴
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