2009-04-19

〔週俳3月の俳句を読む〕馬場龍吉 連作のただしい読み方のすすめ 2/2

〔週俳3月の俳句を読む〕
馬場龍吉
連作のただしい読み方のすすめ 2/2


水仙の香もつとも指遊ぶ     井越芳子

例えばナルキッソス。ナルシストという言葉を生んだ青年の死をも連想させる。風にそよぐ水仙は弱々しく見えて実はプラスチックのように強い。もちろん手折る力には強いとは言えないだろうが。考えてみれば郊外の山頂や、海岸で見かけることが多い。寒風にもびくともしない茎や花は白または黄色の色を持ってまっ先に春を感じさせてくれる花だ。水仙の香りを嗅ぐのに花に指を添えているのだろうか。「もっとも」の措辞にある、その指はまさにいま生きている。

ただ、生活詠はこの連作には生きていないようにも感じた。写生句で通して良かったのではないだろうか。

  

糸すっと抜けて布巾も春の母も  宮崎斗士

おそらく作者からすれば連作の他の作品よりは力を抜いた作品なのかもしれないのだが、共感を得るのはこの作品。果たして他の作品は読者に感動を伝えることが出来ただろうか。二物衝撃はあっただろうか。〈いっぽんの冬木難しいけど良い質問〉の「いっぽんの冬木」は「冬木立」ではいけなかったのだろうか。こだわりは主張であるから個性である。いけなかったんだろうなぁ、作者としては。

  


初蝶にぶつかりさうに歩きけり  高浦銘子

この作品は面白い。なにがって「初蝶がぶつかりさうに飛びゆけり」ではなく主体が作者にあるところがである。初蝶とは言え、行く手行く手に蝶々が飛んでいて高浦氏に蝶にぶつかってみたいなぁという気持ちがあるように読めるのだ。蝶にぶつかってみたいという欲望は、雲を踏んでみたいという欲望にも似ているかもしれない。身近にある思いながらとてつもなく難しいことなのだ。

  


海光や蕊まつすぐに落椿     神戸由紀子

冒頭の〈金色の魚を干して春眠す〉や〈花冷えの芯まで届く百度石〉等、きっちりと読ませてくれる10句である。掲句の海のきらきら感の光の動と落椿の蕊に日当たる光の静の対比は、なんとも見事だ。10句の連作は大作ではないが、纏める作者の費やすエネルギーはああでもないこうでもないと並べ替えたり余程の労力を使っているはずである。それが愉しみでもあるのだが。その充実感が読者にも伝わってくる。

  


茎立つやほとほと神に苛まれ   市堀玉宗

季語を熟知したらこういう作品がすらすらと出来るものだろうか。なんとも羨ましいかぎり。無理なく俳味の醸し出された作品が目立つ。いささか談林的であるが。こういう妙味は好きである。茎立ちは神に関係なく成長の結果であり、まさしく人の目で見ているのだが神の目線にまで持っていくこの強引さも俳句であろう。〈青饅を嗜み人に遅れを取る〉まで行くと面白いが行き過ぎか。〈戒名を授けほどなく薯植うる〉くらいがちょうどバランスがとれているのかもしれない。

  
「おめでとさん」週俳100号記念号から好きな一句

還暦や山は満点大笑       雪我狂流

春なれや波の音する洗濯機    山田露結

きんつばをおもう椿の道すがら  堀本 吟

あたたかや宿坊傘を干し並べ   浜いぶき

体内に青を移せり春の水     羽田野令

地下牢の底に算木を沈丁花    野口 裕

白木蓮永久にこの眼を記憶せよ  中田八十八

亀鳴いて凡そその数五千とも   中嶋憲武

スランプの一本桜並木かな     仲 寒蝉

春めくと枝にあたつてから気づく  鴇田智哉

口という穴覗かれて三鬼の忌   津田このみ

春雨や石を拾へば骨に似て    茅根知子

もつ鍋に浸かる袖口活け桜    谷口智行

また春が来て腰低くなりにけり  佐山哲郎

石いつも受身なりけり春の風   神野紗希

お松明二月三月四月堂      小池康生

あたたかや松のまはりの松ぼくり  久保山敦子

飛梅の幹の上手に曲がりをり   菊田一平

育児書の頁に折り目日脚伸ぶ   小野裕三

浴槽の捨てられてゐる海市かな  青山茂根

仕事から歩いて帰る朧かな    村田 篠

四月馬鹿缶に残れるシリカゲル  上田信治

幾何学の余白に花粉飛んで来し  さいばら天気

  
ふたたび十句鑑賞

青柳向う岸より揺れはじむ    青木空知

ほんとうは〈おほゆびの爪の半月あたたけし〉がいちばん暖かく感じた作品なのだが、すでに先週号で多くの方々がその作品について触れているので掲句に目を移してみた。眼前の柳も揺れているに違いないのだが、遠くで揺れている柳が先に目に入る。風が違うのかもしれない。そういう発見はときどきある。対象が単純なほど深読みを誘うのも俳句の良さでもある。〈そんなにも翼の痒し春の鳥〉この発見もオドロキだ。たしかに生きている以上鳥も痒さを感じることがあるだろう。翼の内側なら嘴で羽繕いもできるが、表側の痒いところを掻くことはできない。指や物を使って痒みを押さえることが出来る人はシアワセである。そう思うとたいがいの悩みは解決できそうなもの。そうとばかりは思えないのが人間の複雑さでもあるのだが。

  


やはらかきものに脚かけ春の虹  大島雄作

柔らかいものに脚を載せているとはどんなものにだろう。こうして一句を読んでいると知らず知らずのうちに虹に脚をかけているような浮遊感を味わうことが出来るような気がするから不思議だ。〈うつくしき順に白鳥帰りけり〉の断定もそういう気持ちに納得させられる。ピュアな表現力はうつくしいが、これをマンネリで終わらせず飛躍、発展させることがこの人の課題でもあるだろう。

  


産声のまはりの無音花吹雪    鶴岡加苗

新しい生命の産声を聞くことは親として涙が出るほどの感激であろう。男親にはこの感激は微妙にズレて訪れる。腕に抱き上げたり、風呂に入れたりして初めて実感できるものだ。だから出産のために実家に帰るときに「風光る」だろうとは思えても、出産のために故郷に降り立っても世界観が変わるほどの感慨までには至らないように思う。病気を患って快癒して病院の玄関を一歩出たときに味わう世界観に近いものだろう程度にしか思えないものではないだろうか。それに比べ女親の自信には確固たるものがあり、それを俳句にできる力は神のみが与えた特権でもある。新しい生命に幸多からんことを。



猫髭 十句の封印による反祝婚歌 10句 ≫読む
井越芳子 春の海 10句 ≫読む
宮崎斗士 思うまで 10句 ≫読む
高浦銘子 てふてふの 10句 ≫読む
神戸由紀子 春眠 10句 ≫読む
市堀玉宗 口伝 10句 ≫読む 
青木空知 あたたけし 10句 ≫読む
大島雄作 納税期 10句 ≫読む
鶴岡加苗 抱けば 10句 ≫読む 


1 コメント:

獅子鮟鱇 さんのコメント...

   七絶・正襟拝聽馬場龍吉先生高説“正讀法”,有感作一首詩

 襟を正して馬場龍吉先生が“正讀法”を高説するを拝聴し,
 感あり 一首詩を作る
  
  遊子正襟尋大家,草廬幽趣吊匏瓜。
  幸哉受講正讀法,酒洗吟喉無齒牙。

   遊子 襟を正して大家を尋ぬれば,
   草廬に幽趣あり 匏瓜を吊る。
   幸いなる哉 正讀法を受講し,
   酒に吟喉の齒牙なきを洗うは。