2009-04-05

〔週俳3月の俳句を読む〕羽田野令 一要素としての五七五

〔週俳3月の俳句を読む〕
羽田野 令

一要素としての五七五~「十句の封印による反祝婚歌」を読む



これは、詩と俳句の組み合わさった作品である。「僕らのファンタジア」「小さな珪石で描かれた無数の輪」「絵摸様」「青い血」などの美しい表現や、「マンホールから火を取り出して口に含んで」「君を植物に分類する」といった不思議な比喩の連なりによって描かれていて、その綺羅綺羅しさと作者の才に一瞬眩んでしまう。

こういう形、たしか恩田侑布子にあったなあと思って探した。あった。B5を横長に使っている薄い雑誌の中の「俳句リレーポエム空華」という一連。2003年Vol.1では、俳句+詩+俳句の1ページである。翌年のVol.2でも形は同じで、Vol.1の終わりの句が頭に来ている。その翌年のVol.3もVol.2の最後の俳句から始まっていて、前回の終わりの俳句から始めるというリレーになっている。形はよく似ている。

「十句の封印による反祝婚歌」での句は、詩に書かれているイメージを辿ってゆくときの、作者の独白のように置かれている。句はこの全体の舞台設定の中で吐かれる台詞のようであり、それを吐く主体がはっきりと感じられると私は思った。

もちろん詩の部分は、エヴァ、英語で言うところのイウ゛に投げかける「俺たち」の言葉として主語が明らかに書かれているのに、「俺たち」の周りや「俺たち」の内側をいかに述べるかに心を砕いているように見える。つまり、俺たちの状況を説明することに言葉を尽くしているようなのである。

量的にも一句の持つ語をはるかに超えていることが、より状況を書こうとしているように思えるのだろう。主語の入っている詩よりも、主語の入らない句が、「わたくし」がふと漏らした言葉のようであるのが面白い。

こういう風に異なるジャンルと並べられた時に、句の一人称性を思うのは、やはり俳句は「わたくし」という主体が確固として在る形式なのかと思ったりする。

しかし、ここの俳句を読もうとする時、俳句と俳句の間にある詩は、被写体の背景のように在って、俳句のみの言葉からイメージを広げようとすることを阻む。と思ってしまうのは、あくまでも俳句側から見た見方なのか。俳句と詩とのコラボレーションによる作品なのだから、そのように見るべきではなくて、全体として読むべきものなのだった。

「十句の封印による反祝婚歌」は、全体はやはり詩だと思う。その中の一要素として五七五がある。ここにある句はここから取り出せば独立した俳句なのだが、こういう形の中にあると、それはやはり俳句ではない五七五である。句だけを取り出して読んでみると、「エヴァよ・・・・」の一連はとても私には浮かばない。詩のグラウンドに立っている句は、読み手に思考の方向を定める、詩の中の一フレーズである。

私の好きなところは最後。春の初めの黄色のミモザを見上げ空を見上げたところから、輪回しの少女のキリコの絵を思い出させる風景が展開され、そこに奇妙に響く音、そして橋という別の岸へ架かるものが結びとして置かれているところ。しかも橋と花が日本的であるのが、西欧的なミモザや輪まわしや「エヴァ」に対して面白い着地だと思った。

読んでいて俳句から詩へ、詩から俳句へのところで少しの間(ま)というか、時間的な空白のようなものを要するように思えた。「獸偏つけて枯野を戻り来る」の次に戻るという場面が来るような繋がりはなだらかであるが、かなり飛んでいるのもある。詩の広がってゆく地平に対して、一滴落とされる句から広がる波紋のできるのは水面である、というようなそんな位相の違いを感じるが、その異なりがこのコラボレーションの妙であるとも言えるのだろう。



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