2009-04-12

〔週俳3月の俳句を読む〕中田八十八 腑に落ちるはなし 

〔週俳3月の俳句を読む〕
中田八十八
腑に落ちるはなし――市堀玉宗3句



下腹部の臍の下の辺りを「丹田」と呼ぶのだということは、合唱団で呼吸法を教わっている時に知った。あらゆる武道や華道などにおいても、重心を低くし、丹田に身体の中心を置く事が重要だという。座禅も然り。

丹田に潜む口伝や梅見頃    市堀玉宗

昔の日本人は、『心はどこにあるか』と訊かれたら、それは丹田にあると答えたそうだ。それが時代と共にだんだん上がってきて、心臓の辺りになり、今では脳の辺りになった。「ああすればこうなる」というような理屈で理解できるものしか受け容れられない「脳化社会」になってしまった。養老孟司氏がその旨の主張を展開している。

食物に例えるならば、「脳で考える事」は、味の良し悪しや、料理法、栄養素などについて議論する事に喩えられよう。それに対して「丹田に落とす事」は、食物を消化し、吸収し、エネルギーに変え、そして実際に「生きる」という活動を起こすことであると言えよう。

師から授けられた口伝の教えが、丹田に落ち、理解・理屈を越えて作者を導いていく。それは朝夕と共にあり、四季と共にある。例えば梅。凛々しくも華やかな梅の花が、静かに座禅に集中している作者の姿と何ともつきづきしい。

涅槃図の嗤ふがごとく泣き崩れ

単に悲しみの程度が甚大であるというだけではあるまい。

「この世は無常である」という釈迦の教えを、泣き崩れている主体は既に何百回と聞いていたかもしれない。しかし釈迦入滅の場に直面して初めて、「無常」という言葉の本当の意味を、強烈なリアリティと共に実感し、「腑に落ちた」のではなかろうか。それはひとつの「悟り」である。釈迦を失う悲しみ、行く末に対する不安、無常という事実へのおそれ、真理に触れた事に対する心の震え。あらゆる感情が入り交じり、狂気にも似た、ほとばしるような嘆きが聴こえるようである。

「嗤ふがごとく」という表現はすばらしい。作者がこの表現を為し得たのは、僧侶という職業を通して、多くの人々の、様々な苦しみや悲しみ、あるいは喜びに、常に正面から向かい合ってきたからではないだろうか。

引導を渡しはなやぐ落椿

落椿に「死」のイメージを重ねることはいささか露骨過ぎるように感じたが、作者にとっての「死」は、私にとってのそれよりもずっとリアルで、身近なものであるということなのかもしれない。いずれにせよ、「はなやぐ」という言葉に強く惹かれる。

おそらく作者は、これまでに数多くの死者に対して引導の法語を説き、あの世に送り出してきたのであろう。落ちる事を運命付けられながらも堂々と咲き、やがて潔く落ちる椿の花。その姿がひとつひとつの命に重なることは言うまでもないが、それは同時に、多くの「死」の場面に出会う事を運命付けられ、それを使命として潔く受け入れ、粛々と死者に引導を渡し続ける作者の心情をも表しているように思われる。これまでに接したどの命も、彼は決して軽んじていない。そしてそれは、これからも変わらないだろう。その姿勢に対して、私は深い感動と尊敬の念を禁じ得ない。



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