2009-04-05

〔週俳3月の俳句を読む〕上田信治 いかにも春の宵

〔週俳3月の俳句を読む〕
上田信治

いかにも春の宵



つきあたりふぶきのごとき野梅かな  井越芳子

「野」を感じさせるような郊外では、町と違って、道のつきあたりを意識させられることは少ないので(もちろんT字路や行き止まりの道はあるわけだけど)、「つきあたり」の一語が「野梅」に対して軽い謎となっている。ふぶきのような見事な梅が目に入った途端、自分と梅の間に、むこう突き当たりの一本道が開かれた、と読んだ。

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花過ぎてそっと僕らの椅子と水   宮崎斗士

椅子と水は、花に心奪われていた人たちが、ほっとするためのものだろう。「花過ぎて」その椅子が出てくるということは、この人たちは、花の盛りの頃から、花どきが過ぎるまで、ずっと見ていたわけです、立って、水も飲まず。それは浦島太郎的な無時間の桃源郷にいたということで、「僕ら」とか言って若ぶってますが、主人公たちは、すごい老人かもしれない。

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初蝶にぶつかりさうに歩きけり  高浦銘子

「初蝶」にぶつかりそうに歩くことは、きっと、けっこう難しい。この人は、野か、道かにいて、初蝶のようにおぼつかなく歩いている。というか、初蝶も自分、歩いているのも自分。もつれとぶ蝶のように、一人でふわふわとしているのです。

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金色の魚を干して春眠す  神戸由紀子

「春眠す」は、ややイレギュラーな表現とも思われるが、気がついたら春眠だったというのではなく、光をまとわせて、誇り高く春眠「する」、自足の快のようなものを受けとった。

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永き日の死ぬる世をまた呆けては  市堀玉宗

人生は短く、春は長い。しかし「死ぬる世」とは。死ぬまでに果たしたいささやかなことと比べても一瞬でしかない生、と取ることも、つまり、自分が死ぬ世、と取ることもできるが、自分ではなく、世が、刻々死んでいる、世が、刻々、自分を残して去り続けている(今も)、と思うと、寂寥もひとしお。

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おほゆびの爪の半月あたたけし  青木空知

「おほゆび」【大指】は、手か足かの親指のことで、「あたたけし」という、古語なのにあんまり雅でない言い方と、しっかり平仄をあわせているという、この知性。

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春光の重たくありぬ万華鏡  大島雄作

そうそう、万華鏡って、虚がある分、外よりだいぶ暗いんですよね。

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春の宵いきみ逃せと言はれても  鶴岡加苗

連作意識の高いこの10句の中で、あからさまに平句っぽいというか、ここは流して、のところに反応してしまうのもどうかと思うが、今、この世界で、たいへんなのは自分だけ(周りは「いきみ逃がせ」の意味すら、推測することしかできない)であることのおかしさが、いかにも「春の宵」だな、と思った。



猫髭 十句の封印による反祝婚歌 10句 ≫読む
井越芳子 春の海 10句 ≫読む
宮崎斗士 思うまで 10句 ≫読む
高浦銘子 てふてふの 10句 ≫読む
神戸由紀子 春眠 10句 ≫読む
市堀玉宗 口伝 10句 ≫読む 
青木空知 あたたけし 10句 ≫読む
大島雄作 納税期 10句 ≫読む
鶴岡加苗 抱けば 10句 ≫読む 


 

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