2009-04-05

インターネット外部の「大人の俳句」をもっと 猫髭

「週刊俳句」のココがダメだ
インターネット外部の「大人の俳句」をもっと

猫髭




「週刊俳句」は、俳句にまつわること、あるいは、俳句とかけ離れた話題でも、「俳句的」とみなせば載せる開かれた場であり、二年弱で百号、アクセス数は73万件を越えているから、立読みとしても立派に成功していると思われる。

立読み、というのは古いなあ。そう、俳句世間のフリーペーパーのようなものだろうか、「週俳」は。本屋や駅(殊に地下鉄)やブティックの入口においてある、結構ヴィジュアル系の雑誌で、殊に「dictionary」などは実に自由で新鮮でハチャメチャで刺激的である。

そういう意味で、総合俳句誌にはなかなか載らないような若手の作品が読める新鮮さは、俳句の発表の場を豊かにしているし、結社誌や同人誌に載った見事な評論の転載も、普通はなかなか目に触れないので読みごたえがある。「俳句的な」連載も楽しい。殊にかまちよしろうの「ぺんぎん侍」は、わたくしの「昼の憩い」と化している。

ところで、「週刊俳句のどこがダメか」と改めて聞かれると、ダメかどうかの意味合いが違うのだが、インターネットに拠らない昔ながらの結社の作品や評論の参加は、やはり少ないと思われ、寄稿者も片寄っていることは否めない。若手の作品が読めるのは嬉しいが、やはり結社の中でだけ研鑚している俳人たちの作品も見て見たい。

多分、彼らはインターネットなどやらないだろうし、またやっていても自分の発表の場はこことここというようなストイックさを持っていると思われるから、「週刊俳句」のような場を必要としていないかもしれない。覗きはしても、発言まではしない。

ただ、八田木枯氏のような例もある。もっと、FAXでも手紙でもいいので、こういった数少ない本物の俳人の作品も読める努力をしていただければと思う。

また、俳人は、これだけいて(一千万人とは言わないが)、句集もこれだけ毎月出ていて、それで芭蕉以来、句集のベストセラーなど聞いたこともないから、俳人というのは自分の句しか読まない種族なのだとすれば、自分の句が取り上げられて褒められれば、俳人穴を出づで、「週俳」にも顔を出すかもしれない事を思うと、世に隠れた秀句を「週俳」でどんどん取り上げることも、場を片寄ったものにしない工夫ではあるだろう。

結社や同人誌の帰属を問わない老若男女の俳人が参加する場になれば、もっと「週刊俳句」は幅が出ると思われる。

そのように思うのは、若手の作品は、わたくしのようなサラリーマンの賞味期限が切れて、老年に入りつつある年頃だと、読むのに疲れることも正直あるからだ。わたくしは詩の世界から俳句に入ってきたので、詩的な虚の構造を持つ句は、余り興味が無い。いわゆる「有季定型写生俳句」に興味を持つ者である。理想は『宵曲句集』(青蛙房)で、春宵に朧月を窓に見ながら、煙草をくゆらし、静かにジャズを流して「剥製の鳥の埃や春浅し」などという燻し銀のような句を読むとしみじみとする。

自由闊達な大人の俳句もまた読みたいというのは贅沢だろうか。

それで思いついたことがある。高浜虚子は「雑詠」の選を生涯のライフワークとした。昭和六年から七年にかけて出した雑詠全集は全12巻に及ぶ。大正4年から死ぬまで虚子は倦むことなく雑詠選を続け、何度も雑詠選集を出している。もう絶版になってはいるが、インターネットでまだ手に入る朝日文庫の『ホトトギス雑詠選集』全四巻などは、骨太の俳句が並び、汲めど尽きせぬ滋味に溢れる。

このことにならって、「週刊俳句」でも「雑詠選」を、あるいは「題詠」を試みられてはいかがであろうか。目利きが必要だが、三人拠れば文殊の知恵ということもある。現在の編集子でチャレンジしてみてはいかがであろうか。

新しい才能が、新しい調べを持つ一句が「週刊俳句」から生まれれば面白いと思う。古い才能が、確かな手応えの一句が「週刊俳句」から生まれれば、温故知新である。

これが一つ目の提案である。

もう一つ。百号記念で「歌仙」を巻き始めたが、これはとても大切な事だと思う。十句出すにしても、その構成の流れは連句をたしなむ俳人とたしなまない俳人ではかなり違う。

まとめて句を発表する時は、やはり発句(客人からの座への挨拶)・脇句(客を迎える主人の歓迎の挨拶)・第三句(大きく転ずる)の流れから、月の座、戀の座、花の座と来て挙句(行きて還らずの心)に至る、そこに平句に近い句を置いて起伏を作る呼吸がとても大切だと思う。

ひとつひとつの句はいいのに、並べると打越があったり、戻る句があったりで、読んでいて流れが澱む構成が見られる。

是非、「週俳」で若い俳人、ベテランの俳人問わず、より連句を楽しめるような企画を希望する。

一句一句はいいのに、十句を読ませる工夫が正直無頓着な俳人が多いのでは。連句をやる事で、その辺の構成の呼吸を学べるのではないかと期待する。

殊に、賞に応募する俳人たちや句集を出す俳人たちは、連句に遊ぶ事で、一句で成り立つ孤の句を響かせるにはどういう構成にすれば読者が楽しめる世界が現われるかに思いを寄せるだろう。

ほかには、シリーズ物で途中で数回やって続かないものがあり、楽しみに読んでいるのでシリーズ物は続けるようにお願いしますという声が句友の間から挙がった。

「サバービア俳句」を展開してゆくとか、長谷川裕の旅行記とか、「第一句集を読む」とか、etc.。という声が多かったことを、追伸として。

1 コメント:

imagon さんのコメント...

猫髭さん、記事楽しく読ませていただきました。

<自由闊達な大人の俳句もまた読みたいというのは贅沢だろうか>
よくぞ申された。私もアンチエージングが気になるお年頃ですので。

今の週俳はやはり若い方に大人が場を提供するという景に見えます。天気さんが某誌で「週俳は場を提供することに徹します」と発言されていますが、その点で週俳はその役割を見事に発揮していると思います。

では、<老若男女の俳人が参加する場>を週俳一本でカバーできるか?その点はちょっと懐疑的にならざるを得ません。一般雑誌が年齢やクラスによって読者層を細かく細分化するように、第二、第三の週俳が求められるのかもしれません。その場合、どうしても閉じた場になるでしょうから、狭いムラになるかもしれない。難かしいけれど一匹の巨大なアメーバのように老若男女を飲み込んで欲しいなあ。そのためには「雑詠選」と「歌仙」はうまいアイデアだと思います。ネット上なら乙女と爺(貴公子と婆でもよいが)が手に手をとってフォークダンスだって踊れてしまう(笑)。個人的にはハードル高そうですが。

結社という壺から蛸さんをおびき出すのも夢ではないと思います。週俳で何が話題になっているかを会員に「啓蒙」する記事が結社誌に載るこの頃ですから。