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2009-04-19

谷 雄介 「~を読む」のコーナーに辟易

「週刊俳句」のココがとことんダメだ
「~を読む」のコーナーに辟易

谷 雄介




どうも、こんにちは。谷です。

「週刊俳句のココがダメだ」ということなんですけども、「~を読む」のコーナーに少し不満があります。

それぞれの作品について鑑賞を書いておしまい、という体裁のものが多いなという気がしてます。

まあ、作品について取り上げてもらった作者はそれだけでうれしいんだろうなと思うし、的確な鑑賞が多いとも思うのですが、傍から見ていると、少なくとも僕にとってはあまり面白くない。どれだけ豊かに読み込めるか、どれだけ上手く書けるかの勝負を見ているような気がしてしまい、少し辟易。

最近の「~を読む」の中では、菊田一平さんの「クリスピーサンド(パンナコッタ&ラズベリー)」の書き方に好感を持ちました。

菊田さんの文章のよさは、文章を書いている菊田さんが紛れもなく菊田さんでしかないこと。攝津さんのことを思い出してみたり、クリスピーサンドの封を切ってみたり。菊田さん以外の書いてる鑑賞文は、ほとんど「先生」の立場になって書いた講評のように僕には見えます。

そもそも、正直なところ週刊俳句自体最近あまり読んでないです。忙しいのを言い訳にはできませんが、仕事から帰ってきて、パソコンを開いて「よし、週刊俳句読むぞ」となかなか思えない。

そんなこともあり、「~を読む」の中でももっといろいろな書き方が出てくるといいなあと思った次第。的外れだったらすみません。

あ、石原ユキオさんの「はいく×まんが」面白いです。

2009-04-12

猫髭さんの数々の提言に さいばら天気

RE:「週刊俳句」のココがダメだ
猫髭さんの数々の提言に …さいばら天気


猫髭さんの「インターネット外部の「大人の俳句」をもっと」を拝読。週刊俳句を「俳句世間のフリーペーパー」と表現していただいたことにまず吃驚。私も少し前からそう思ってるんです、いや、ほんと。

街角のラックに並んだ無料の雑誌。気が向いたら抜き取って読み、読み終わったら捨てる。広告掲載料の有無という大きな違いはありますが、送り手の意識、読み手の意識という面で、週俳はきわめてアレに近い。猫髭さんのご指摘に深く首肯、かつ深く御礼。

それはともかくとして、「週刊俳句のダメなところ」について書いてくださいという依頼に、芸達者・筆達者な猫髭さんなら、舌鋒鋭く、あるいは見方によっては喧嘩腰に、センセーショナルな「ダメ出し」を展開することも充分に可能なはずで、そうなると、こちらサイドとしては、有り難く、かつ美味しく、論争を熱く盛り上げていくこともできたのですが、今回は、気分がそうさせたのか、いささかマイルドな内容です。その枢要は、次の一文に尽きるでしょうか。

インターネットに拠らない昔ながらの結社の作品や評論の参加は、やはり少ないと思われ、寄稿者も片寄っていることは否めない。若手の作品が読めるのは嬉しいが、やはり結社の中でだけ研鑚している俳人たちの作品も見て見たい。
(猫髭・以下引用は同)

週刊俳句への寄稿者に、いわゆる結社プロパーな人が少ない。若手が比較的多い。そこに不満を感じていらっしゃいます。

以下、とりとめなく、お答えします。猫髭さんも、読者の皆様も、どうぞ膝を崩して、気軽にお聞きください。

 

指摘される偏りは、実際、あるでしょう。まず年齢層から言うと、便利なことに、俳句作品を寄せていただいた方の年代別一覧記事があるので、それを見てみましょう。

年代別・週刊俳句 2007年アンソロジー 44人44句
年代別・週刊俳句2008年アンソロジー 91人91句

これを見ると、まず2007年44人のうち、70代以上が2人、60代が3人、50代が25名(!)、40代が8名、30代が4名、20代が2名。50代が半数以上を占めるという偏り方。この理由ははっきりしていて、週俳を切り盛りしている私たちと年代的に近い人が多くなっているということです。週俳1年目は、手近な(というと寄稿者に叱られますが)人たちに甘えた格好です。

2008年になると、91人のうち、70代以上が8名、60代が4名、50代が29人、40代が22人、30代が9人、20代以下が19人。50代が依然として多いものの、その上下の年代に広がっています。

広がりの度合いはもちろんまだ充分とは言えず、俳句世間全般の年齢分布から言えば、若年に偏りがちではありますが、なにしろ、いくつかの俳句協会の平均年齢が軽く70歳を超える俳句世間です。この現実を反映した年齢分布を週俳が実現するのはかなり難しく、またその必要もないでしょう。猫髭さんの提言の主旨も、年齢層よりむしろ、「オトナの俳句」を、ということだと解しました。

次に、インターネットの外部、結社の内部をも取り込むべきという提言ですが、このうちインターネットの内部と外部という問題は少々微妙で、そもそも、外部対内部、リアル対ネットという図式を反故にするところから、この週刊俳句はスタートしているフシがある(他人事のように言う)。

より具体的に言えば、ネット環境を利用しながらも、ネットに両足を置くことはしない。例えば、いわゆるハンドルネームでの寄稿は原則、受け付けていません。猫髭さんは唯一の例外と言えるものですが、「猫髭」という俳号がすでに歴史的にアンデンティティを確立しているという判断からの例外です。

あるいは、リアルの権威や秩序を無視しない。一例を挙げれば、多くの読者はお気づきのように、俳句賞受賞者に多く寄稿依頼しています。また俳句総合誌という既存の紙媒体を「読む」という記事を続けていることも、ひとつの証左でしょう。

そして個人的には、再三、申し上げているように、「インターネット俳句など存在しない」という見解。リアル対ネットという不毛の対立に与せず、ネットのメリットを見極めつつ、リアルな俳句をみんなで愉快に遊びましょう、というのが週俳の基本スタンスだと思っています。

だったら、よけいに、インターネットと疎遠な作家の作品も、もっと積極的に掲載すべきという意見が出そうです。それには「がんばります」とお答えするしかありません。これまでにすでに、お手紙やファクス等で依頼・入稿・その後のご連絡を進めた例は、若干ながらあります。そうした作業を少しずつでも積み重ねていきたいと思っています。

次に、猫髭さんご指摘の「結社の中でだけ研鑚している俳人たち」という部分です。このうち「だけ」という2文字をどう解するかで、お答えが変わってきますが、週俳への寄稿者の多くは結社所属です。確認しきれてはいませんが、10代・20代を除けば、圧倒的に多数の方が結社所属だと思います。

そういえば、信治さんと私はそうじゃないですね。猫髭さんが名前を挙げていらっしゃる八田木枯さんも結社から遠い立ち位置です。お若い頃にたしか「天狼」に所属されて以降、結社との関わりがなく、現在も同人所属です。

閑話休題。結社所属か否かは、週俳にとってさほどの問題ではありませんので、このあたりも、広くネットワークが広がれば、と、これは「これからもっとがんばります」の意思表明であると同時に、週俳からの切望でもあります。

ただし、ふたつのポイントで、偏りも、あえて辞さず、という部分はあります。ひとつは若い人の寄稿。もうひとつは、結社誌・俳句総合誌等の定期刊行物への発表の機会の少ない作家。

猫髭さんの提言に反駁するかたちとなる前者は、週俳がインターネットという新しい(笑)分野のものだから、という理由ではまったくありません。ひとつには、何十年か先の俳句の景色を決めるのは、私たち年寄りではなく、若い人だから、という、やや感傷的かもしれない私個人の理由があります。

その一方で、「若けりゃいいってもんじゃない」という思いもしっかりと抱いていることも申し添えておきます。俳句世間や結社が若いというだけでチヤホヤする(「老人ホームに慰問に来た学生さん」状態)、その習性とは一線を画しつつ、週俳は週俳なりのスタイルで若い人たちに接していくつもりです。

さて、次。後者は、シンプルに、惜しいから、です。アウトプットの豊かさに、発表の機会数が追いつかないケースは多々あります。そこを週俳が少しでもカバーできれば、すんごく嬉しくなります。

 

以上、猫髭さんへのお答えになっているのかどうか、心許ないですが、前掲記事「「インターネット外部の「大人の俳句」をもっと」の後半にある具体的なアドバイスにもレスポンスしておこうと思います。

1 秀句紹介

前掲。猫髭さんの提言のうち、次の部分です。

世に隠れた秀句を「週俳」でどんどん取り上げることも、場を片寄ったものにしない工夫ではあるだろう。

コーナー企画のひとつとして、当然、考えられるものですが、当初から、この部分には手を出しませんでした。理由(私個人の中の理由ですが)、すでに在るからです。よく知られ歴史のあるサイトでは、「増殖する俳句歳時記」、それに「e船団」の「日刊この一句」。また、個人ブログで秀句を取り上げるところも多い。さらにはメールマガジンという形式で羽田野令さんの「ふわりと一句」。読者の多くは、これらのうち自分の好みのいくつかをブックマークして楽しんでいらっしゃるのではないでしょうか。週俳も、コーナーを設けて同様の記事をアップしていく選択もありますが、これまでずっと優先順位のうしろのほうでした。

ついで、句集の紹介も、週俳は積極的ではありません。「第一句集を読む」はありますが、続々と刊行される新刊・句集を取り上げることはしません(上梓されたばかりの方に、10句作品を依頼することはしています)。その理由は、ひとつにはなんとなくコーナーを設けなかったということ、そしてもうひとつは、秀句紹介と同様、その機能を果たしているサイトや個人ブログが他に存在するということもあります。

豈 Weekly」では豈同人、あるいは関悦史さんによる新刊句集の紹介記事が毎号のように掲載されています。小野裕三さんのブログも、新刊句集の紹介記事が充実しています。こうした存在のおかげで、週刊俳句は、安心して、そこに手を出さなくて済む、という部分があります。

でも、まあ、こうした「読む」記事、紹介記事は大事に考えているので、そのうち趣向を思いついて、スタートするかもしれません。

2 雑詠選・題詠選

このこと(ホトトギス雑詠選)にならって、「週刊俳句」でも「雑詠選」を、あるいは「題詠」を試みられてはいかがであろうか。目利きが必要だが、三人拠れば文殊の知恵ということもある。現在の編集子でチャレンジしてみてはいかがであろうか。

企画そのものはともかく、「現在の編集子でチャレンジしてみては」の部分は悪い御冗談(笑。

俳句作品の寄稿とは別の「投句」コーナーというのは俳句総合誌には付き物のようですが、「週刊俳句」には、どうでしょう?(註1)

投句なら皆さん、ご自分でこの人と決めた主宰の運営する結社に入って、毎月投句するほうがよほど楽しいはずです。

より広範囲の読者に週俳を身近に感じていただく、というのが、猫髭さんの提言の狙いでしょう。うまく行けば、新しい読者も獲得するでしょう。選者は、どなたか引き受けてくださるかもしれません。でも、週俳のノリじゃないよなあ、と、今のところは、思います。あくまで個人的な感想ですが。

3 連句の試み

ウラハイで本誌100号記念にとしてスタートした連句について、好意的に受け取っていただいたことは嬉しいです。

ただし、「十句を読ませる工夫が正直無頓着な俳人が多いのでは。連句をやる事で、その辺の構成の呼吸を学べるのではないか」という部分は、まったくそんなことはない、と断言しておきます。

学ぶとか役に立つとか、猫髭さんらしくもない。そんな野暮なことをおっしゃらずに、付句をどうぞ。発句はいただきましたが、それ以降は「お見限り」です。お祭りですから、たくさんの皆さんの御参加をお待ちしております。

なお、捌きである私の非力さ・いい加減さは、「ふつう捌きはしっかりした偉い先生がやるもんだ、宗匠って言うくらいだからな。捌きがボンクラな連句なんてめずらしいから、付き合ってやるか」と懐深くオツに構えていただければ幸いです。

 

最後に「続きはどうなってるんだ?」という声について。

シリーズ物で途中で数回やって続かないものがあり、楽しみに読んでいるのでシリーズ物は続けるようにお願いしますという声が句友の間から挙がった。「サバービア俳句」を展開してゆくとか、長谷川裕の旅行記とか、「第一句集を読む」とか、etc.。という声が多かったことを、追伸として。

ええっと、シリーズといいながら、もう忘れてしまうくらい「次」が出てこないものもありますが、続いているものは続いておりますので、どうぞ、気長にお待ちください。

「第一句集を読む」は、いま対象俳人と書き手を検討中。これを読んで、「よっしゃ、ワシが書いたる」という方、男女を問わず歓迎いたします。ご連絡ください。

「サバービア俳句」もそのうちきっと登場します(俳句とどう関係があるの?という企画を現在あたためています)。

一方、長谷川裕さんの旅行記は、キューバとメキシコでいちおう完結しています。

 

加えて、猫髭さんの当該記事に寄せられた imagon さんのコメントにも少し触れておきます。

<老若男女の俳人が参加する場>を週俳一本でカバーできるか?その点はちょっと懐疑的にならざるを得ません。一般雑誌が年齢やクラスによって読者層を細かく細分化するように、第二、第三の週俳が求められるのかもしれません。

この「第二、第三の週俳」という部分ですが、週俳と機能やスタンスが共通するなら、二つも三つも要りません。もし仮に、「週俳のようなウェブマガジン」を作ろうとお考えの方がいらっしゃったら、「いっしょにやりましょう」と申し上げると思います(現実には、そんなことは起こりそうにないのですが、考え方としては、そう)。まったく別のコンセプト、別のスタンスなら、もちろん立ち上げる価値がありますが、そうでなければ、いっしょにやっちゃえばいい。

ところで、つねづね、「結社や同人って、分裂することはあっても合併はしないよなあ」と不思議に思っています。同じようなことをするなら、いっしょでいいのに、と。

これからさき、週刊俳句がどこかのウェブサイトと合併することもあるかもしれません。どちらかが吸収合併するという生臭いノリではなく、発展的な合併。

現在、私を含め3名で切り盛りしていますが、これが永続するわけではなく、いずれ、この当番メンバーも変わっていくのだと思います。それが「場」であることの意味のひとつでしょう。


(註1)投句コーナーと週刊俳句について:余録

この部分は余録として聞いていただきたいのですが、俳句を「作る」ということに関しては、俳句世間全般、すでに環境は整っていると思います。俳人というのは、「作るな」と言っても作ってしまう人種のようです。

ところがその俳句が充分に読まれているかというと、そうではないわけで(ご自分の俳句にしか関心が向かない俳人のなんと多いこと!)、いわば、「作る」の過剰供給に、「読む」という消費(健全な消費行動=享受)が追いつかない。この不健全な状況は、いまさらここで言うまでもなく各所で指摘されることで、「批評の不在」もそこから来ています。


「とりあえず作ってみなさい、楽しいから」と俳句に誘われ、それからあとは「どうやれば巧く作れるか、ウケる句が作れるか」の実用情報が幅を利かせる。「読む」ことの愉楽、そして同時に困難さには、さして頭を受けることなく、五七五(含・季語)がバカスカ生み出される。

以前、「俳句を作る人の数=読む人の数」という自給自足の「俳句村」状況(村で穫れた大根を村で消費する)ということを思いましたが、それどころか、俳句の「作る人」のほうが「読む人」よりはるかに多いのではないかとさえと思います。

俳句を「読む」ことは愉しいはずなのに、その部分はなんだかやせ細ってしまったような感じなのです。

そこで「週刊俳句」です。2007年4月に始まった週俳は、ある意味、「俳句を読みましょう」運動でした。ついでに俳句について書かれたことも読んでみましょう。そして「俳句のことを話しましょう」運動です。「読む」愉楽の復興、というと大袈裟ですが、俳句を読み、語ることの豊かさに週俳が少しでも貢献できたら素晴らしい。

雑詠選・題詠選は、多くの人の「作る」ことの受け皿になる可能性はあっても、「読む」ことの豊かさにつながるとは考えにくい。それが今のところの私の感想です。

落選展について 上田信治

RE:「週刊俳句」のココがダメだ
落選展について …上田信治



前号記事 榮猿丸「落選展の意図が分かりません」にお答えします。

ビジネス用語だと思うのですが「理論値から入る」という言い方があります。理論値は、実験値の対義語として使われる言葉で「ほんとうはこうなるはずの値」というくらいの意味でしょうか。

「理論値」から入れば、新人賞というものは、もっともっと素晴らしいものでありうる。そうあるべきだと、自分は考えます。

もっと、新しい俳句が見たい。それが生まれようとする熱と苦しみが見たい。そして、もっともっと、毎年「スタア誕生」が見たい。他ジャンルで、機能している新人賞というものは、当たり前に、そうなっているわけです。

ものごとが理論値通りになっていないなら、現実のほうにどこか間違いがある、というのが「理論値から入る」考え方で、自分に「新人賞」に対する不満があるとしたら、それに尽きます。必ずしも、毎回の選考に対する不満ではない。

多分、いちばんの不満は、なんで、もっと、みんな目の色変えて、応募しないんだよ、ってことかもしれない(まさかの、一般読者責め)。

「角川俳句賞は、若い頃いちど出したけど、予選も通らなかった」と、有名俳人(それも複数)から聞きました。たしかに公募の賞は、労力に比して返ってくるものが少ない、闇に小石を投げたるごとく、というようなものかもしれない。結社やグループで、発表の場や評価を得ている人には、いまさら必要のないものかもしれません。

しかし、そこで名前を上げること、運否天賦をふくめて選考の針穴を通ることだけが、参加の意義ではないはずで、たとえば、それは、結社やグループを超えて、やる気と膂力があり余っている作者が、競い合う遊び場でもありうる。

そのことを「落選展」は目に見える形にするだろうと、思っています。

今回読者に、さまざまな応募作品(猿丸さんの50句を含めて)と、自分のものを読み比べてもらえた、という思いは、自分の支えになっています。この気持ちは、「落選展」の参加者のみならず、「賞への応募者」全体、あるいは、「これから賞に応募するかもしれない読者」全体が、分け持てるはずのものです。

それは、自分が考える「機能する新人賞」に、現実を一歩近づけることになる、と考えています。

だいいち、出したもの、読ませたいじゃないですか!(あ、本音だ)

「ある近しい俳人は「選考委員は生半可ではない覚悟を持って作品を選考している。選考する側のことも考えてほしい」と否定的です。」(猿丸さん先号記事)

「選考結果に不服だ、他にいい作品あるだろう、よく見てみろ、という姿勢。そういう意図が明確であれば、読者としても読みやすいし、コメントもしやすい。しかし、選考結果に不服ありません、でも私達の作品をみてください、という姿勢で作品を提示されても、どう受けとっていいかとまどってしまいます。志が見えにくいというか、本来に投稿した元の賞に対して、選考委員(予選含む)に対してどのようなスタンスで投稿されているのかが見えにくい。」(当該記事コメント欄への猿丸さんの書き込み)


猿丸さんの記事には、コメント欄で、鮟鱇さんが、読者の立場から懇切に応答していただいて、たいへんありがたかったです。

そこでのやりとりもふくめて、猿丸さんの不満は(意訳させていただけば)「要は、角川と選考委員に喧嘩を売っているくせに、そのことを認めない態度がしゃっつらにくい」ということではないかと、思われました。

あるいは「それ、やっぱり失礼だろ」と。

上述の「近しい俳人」の方の発言の現場に、自分もいました。ていうか、叱られてたのは私だw。

あれは、「選」あるいは「選者」というものを大事なものと考える、という立場からの言葉だったと思います。たしかに「選」は、俳句コミュニティの紐帯の根本に関わるものです。選者を絶対視しないことには、成立しない貴重な関係がある。そのことにはまったく同意します。

しかし、それを公募賞の選考にまで拡張することは、妥当でしょうか。「選」が絶対であるのは、師弟関係においてであって、それを公募賞の選考委員と応募者に当てはめるのは、「選」という語の用法として、カテゴリーミスではないか。

逆に言えば、先生以外の選を受けるのがいやで、公募賞に応募しないという「覚悟」もありうるわけです。つまり、もともと、公募賞の選は、絶対視し得ないものではないでしょうか。

なんとか言葉を返そうとする自分に、その俳人は「選者の身にもなってくれよ」と言って、笑ってくれました。

公募賞を神聖視する必要はないが、選考委員を攻撃するようなことだけは(結果的にでも)してくれるなよ、ということだったと思います。

それは、確かに。自分にも、選考委員のどなたかに、あれは失礼だよ、と言われたら、飛んでいってあやまる用意はある。

でも「落選展」は、たぶんやめないです。いちおう、俳句のために、いいことをしているつもりなので。

えー。あまり自分の善意を疑ってないところを見せるのも、バカみたいなので、これくらいにしておきます。今後、落選展に100や200も、作品が集まるようになったら、ちょっと考えなきゃいけなくなるかも。

猿丸さん(と、鮟鱇さん)の問いかけに対する、お答えになっているでしょうか。


これまでの落選展 ≫こちら

2009-04-05

インターネット外部の「大人の俳句」をもっと 猫髭

「週刊俳句」のココがダメだ
インターネット外部の「大人の俳句」をもっと

猫髭




「週刊俳句」は、俳句にまつわること、あるいは、俳句とかけ離れた話題でも、「俳句的」とみなせば載せる開かれた場であり、二年弱で百号、アクセス数は73万件を越えているから、立読みとしても立派に成功していると思われる。

立読み、というのは古いなあ。そう、俳句世間のフリーペーパーのようなものだろうか、「週俳」は。本屋や駅(殊に地下鉄)やブティックの入口においてある、結構ヴィジュアル系の雑誌で、殊に「dictionary」などは実に自由で新鮮でハチャメチャで刺激的である。

そういう意味で、総合俳句誌にはなかなか載らないような若手の作品が読める新鮮さは、俳句の発表の場を豊かにしているし、結社誌や同人誌に載った見事な評論の転載も、普通はなかなか目に触れないので読みごたえがある。「俳句的な」連載も楽しい。殊にかまちよしろうの「ぺんぎん侍」は、わたくしの「昼の憩い」と化している。

ところで、「週刊俳句のどこがダメか」と改めて聞かれると、ダメかどうかの意味合いが違うのだが、インターネットに拠らない昔ながらの結社の作品や評論の参加は、やはり少ないと思われ、寄稿者も片寄っていることは否めない。若手の作品が読めるのは嬉しいが、やはり結社の中でだけ研鑚している俳人たちの作品も見て見たい。

多分、彼らはインターネットなどやらないだろうし、またやっていても自分の発表の場はこことここというようなストイックさを持っていると思われるから、「週刊俳句」のような場を必要としていないかもしれない。覗きはしても、発言まではしない。

ただ、八田木枯氏のような例もある。もっと、FAXでも手紙でもいいので、こういった数少ない本物の俳人の作品も読める努力をしていただければと思う。

また、俳人は、これだけいて(一千万人とは言わないが)、句集もこれだけ毎月出ていて、それで芭蕉以来、句集のベストセラーなど聞いたこともないから、俳人というのは自分の句しか読まない種族なのだとすれば、自分の句が取り上げられて褒められれば、俳人穴を出づで、「週俳」にも顔を出すかもしれない事を思うと、世に隠れた秀句を「週俳」でどんどん取り上げることも、場を片寄ったものにしない工夫ではあるだろう。

結社や同人誌の帰属を問わない老若男女の俳人が参加する場になれば、もっと「週刊俳句」は幅が出ると思われる。

そのように思うのは、若手の作品は、わたくしのようなサラリーマンの賞味期限が切れて、老年に入りつつある年頃だと、読むのに疲れることも正直あるからだ。わたくしは詩の世界から俳句に入ってきたので、詩的な虚の構造を持つ句は、余り興味が無い。いわゆる「有季定型写生俳句」に興味を持つ者である。理想は『宵曲句集』(青蛙房)で、春宵に朧月を窓に見ながら、煙草をくゆらし、静かにジャズを流して「剥製の鳥の埃や春浅し」などという燻し銀のような句を読むとしみじみとする。

自由闊達な大人の俳句もまた読みたいというのは贅沢だろうか。

それで思いついたことがある。高浜虚子は「雑詠」の選を生涯のライフワークとした。昭和六年から七年にかけて出した雑詠全集は全12巻に及ぶ。大正4年から死ぬまで虚子は倦むことなく雑詠選を続け、何度も雑詠選集を出している。もう絶版になってはいるが、インターネットでまだ手に入る朝日文庫の『ホトトギス雑詠選集』全四巻などは、骨太の俳句が並び、汲めど尽きせぬ滋味に溢れる。

このことにならって、「週刊俳句」でも「雑詠選」を、あるいは「題詠」を試みられてはいかがであろうか。目利きが必要だが、三人拠れば文殊の知恵ということもある。現在の編集子でチャレンジしてみてはいかがであろうか。

新しい才能が、新しい調べを持つ一句が「週刊俳句」から生まれれば面白いと思う。古い才能が、確かな手応えの一句が「週刊俳句」から生まれれば、温故知新である。

これが一つ目の提案である。

もう一つ。百号記念で「歌仙」を巻き始めたが、これはとても大切な事だと思う。十句出すにしても、その構成の流れは連句をたしなむ俳人とたしなまない俳人ではかなり違う。

まとめて句を発表する時は、やはり発句(客人からの座への挨拶)・脇句(客を迎える主人の歓迎の挨拶)・第三句(大きく転ずる)の流れから、月の座、戀の座、花の座と来て挙句(行きて還らずの心)に至る、そこに平句に近い句を置いて起伏を作る呼吸がとても大切だと思う。

ひとつひとつの句はいいのに、並べると打越があったり、戻る句があったりで、読んでいて流れが澱む構成が見られる。

是非、「週俳」で若い俳人、ベテランの俳人問わず、より連句を楽しめるような企画を希望する。

一句一句はいいのに、十句を読ませる工夫が正直無頓着な俳人が多いのでは。連句をやる事で、その辺の構成の呼吸を学べるのではないかと期待する。

殊に、賞に応募する俳人たちや句集を出す俳人たちは、連句に遊ぶ事で、一句で成り立つ孤の句を響かせるにはどういう構成にすれば読者が楽しめる世界が現われるかに思いを寄せるだろう。

ほかには、シリーズ物で途中で数回やって続かないものがあり、楽しみに読んでいるのでシリーズ物は続けるようにお願いしますという声が句友の間から挙がった。

「サバービア俳句」を展開してゆくとか、長谷川裕の旅行記とか、「第一句集を読む」とか、etc.。という声が多かったことを、追伸として。

落選展の意図がわかりません 榮猿丸

「週刊俳句」のココがダメだ
落選展の意図がわかりません

榮 猿丸




落選展の意図がわかりません。読者としてはどう受け止めればよいのかとまどいます。この企画の着地点が見えません。

以下、感想。

「若い人の俳句が読めてよい」との声も聞きます。今の若い人がどういう俳句をつくっているかがよくわかる、と。

ある近しい俳人は「選考委員は生半可ではない覚悟を持って作品を選考している。選考する側のことも考えてほしい」と否定的です。

私は、この企画、あまり肯定的には受けとれない、というか、違和感があります。

元の賞に対してどういうスタンスなのだろう。ただ見せたい、というだけでは浅いのでは。表現する者として違和感があります。言葉が悪いですが、中には「週刊俳句はゴミ箱ではないでしょう」と言いたくなるものもあるので。

ぼく週刊俳句を愛してるんで、ちょっと厳しい言い方になってしまいました。週刊俳句の姿勢として、断らない、拒まないだろうし。それは良いことだと思ってますが、ネットの功罪みたいなものもあるのかな。ネットだからいい、ということでもない。作品を人に見られる、ということにもっと意識的になるべきだと思うのですが。

コメント欄も、なにか内輪でほめあってるように見えてしまいます。作品を人に見られる、という意識が低く、その代わり、コメント欄は、「(とくに本人に)見られている」意識が強く働いていて、表面をなぞるだけの感想に終わっている。ネットは、その当事者だけが見ているものじゃない。「それでいいんだ」というのであれば、週刊俳句の場でなくて、個人のブログでいいんじゃないでしょうか。

簡単に言うと、「週刊俳句」という場が、この企画ではうまく機能していない、ということに尽きるかもしれません。

とにかく、しっかりした企画意図を示してもらえれば納得できると思い、申し上げました。

これまでの落選展 ≫こちら