2009-04-05

「前衛俳句」の定義の必要についての覚書 神野紗希

現俳協シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか
「前衛俳句」の定義の必要についての覚書 ……二項対立の解体へ


神野紗希


あるシンポジウムを見に行くとき、テーマや出演者の顔触れを見て、事前に話の展開を想像する。必要ならば、関係のある資料を読んでいく。今回のシンポジウムの題は「前衛俳句は死んだのか」。会の前半には、金子兜太氏の講演が予定されている。ということは、前衛俳句の代名詞ともいえる金子兜太氏の目の前で、「前衛俳句は死んだ」と高らかに宣言されるのかもしれない、と、ひそかに期待していた。また、その逆、「前衛俳句はまだ死んでいない」という結論を出すのも、現代俳句協会青年部の選んだ一つの答えとして興味深いものだと思っていた。しかし、「前衛俳句は死んだのか」という命題について、明確な答えを聞くことはできなかった。これが残念だった。

各出演者の意見を聞いていて面白かったのは、「前衛俳句」という用語が、一体どんな事象や俳句作品を指し示すのかが、いまだに定まっていないと分かったことだ。「前衛俳句」の定義が定まっていないのだから、「前衛俳句は死んだのか」という命題に、答えを出すことができないのは、ある意味当然のことかもしれない。

前衛俳句を語ろうとするとき、「俳句の中の前衛性」について語ることは、非常に意義のあることだ。しかし、たとえば出演者の宇井十間氏の「俳句には元来、前衛性が含まれているから、鷹羽狩行だって前衛俳句と言えなくはない」といった類の発言を聞くと、やはり、「前衛俳句」という語は、まず歴史的用語としての位置づけをされるべきだと思った。そのことによって、まず、「俳句の中の前衛性」について語ることと「前衛俳句について語ること」の位層の違いを把握することは、可能になるだろう。

「前衛」という言葉の意味は、もちろん「新しい」とか「前線」とかそういうものだが、「新しい」とか「前線」とかを指し示す語が「前衛」だけではない。つまり「前衛」という語を用いている以上、そこに、「新しい」とか「前線」といった意味以上に、たとえば特定の時代を指し示す役割が付与される。つまり、現在すでに「前衛」という言葉自体が、「前衛短歌」「前衛芸術」のように、昭和のある時代を象徴する用語として使われている以上、「前衛」といったときには、「新しさ」よりも、ある時期新しかったものを指し示す、古い言葉として認識されるのが普通である。たとえば小川軽舟氏が、『現代俳句の海図』(角川学芸出版)で、「新しさ」の概念を表す言葉として、「前衛」という語を選ばず、「フロンティア」という語に言い換えて、現在の「新しさ」がどこにあるのかを語っているのも、「前衛」の語にまつわる歴史的意味あいを忌避してのことだろう。過去の匂いをまとう「前衛」という言葉が冠されている以上、「前衛俳句」という用語も、まず歴史的系譜に位置づけられたものとして考えられるのは当然だし、実際に、そのように位置づけるメリットは多くある。

「前衛俳句」を歴史的用語として定義づけることは、まず「前衛俳句」の成果を確かなものとして位置づける意義がある。実際、シンポジウム中に、高柳重信の話がほとんど上がらないのを私は不思議に思ったが、ある人の認識では、「前衛俳句」の枠組みの中に彼は入っていないのかもしれない。そのあたりの舗装を行うことによって初めて、この時代に試みられ、俳句の獲得していった「創作主体と生活主体の分離」「多行形式」「社会性」などといった遺産を、総体的に把握できるのではないだろうか。

このように、その業績を評価し再認識することのほかにも、「前衛俳句」を歴史的用語として整備することには、意味がある。

たとえば、「前衛俳句」の成果を一つのコンテクストとして共有することで、現在書かれている「前衛俳句」の中のいくつかは、ただの「前衛俳句的な俳句」であったことが顕在化するかもしれない。「前衛俳句」も、金子兜太や高柳重信らが権威化されることによって、実質的にオーソライズされた。オーソライズされた前衛など、聞いたことがない。「前衛俳句は死んだのか」というよりも、そろそろいい加減、「前衛俳句」は正式に葬らなくてはいけないのではないか、というのが、私の正直な意見である。

もう一つのメリットは、「前衛俳句」が歴史的用語として位置づけられ、「前衛」という言葉が過去のものとなり、「前線」「新しさ」を示す語ではなくなることによって、「伝統」と「前衛」の二項対立も、ようやく脱構築されるのではないか、ということである。「前衛」という用語が「新しさ」の代名詞である限りにおいて、それは「伝統」との二項対立で語られ続ける。しかし、「前衛」も「伝統」も、過去の遺産だと位置づけられれば、「新しさ」を目指す作者・論者は、また新たな第三以降のポイントを見つけることが可能となり、戦後俳句史も、もう少し面白い地図が描けるように思う。

 白息のほかにかすれてゐる木々も  鴇田智哉
 ガーベラ挿すコロナビールの空壜に  榮猿丸
 焼跡より出て来るテスト全部満点  谷雄介

たとえば、近年のこういった句は、これまでの「前衛」にも「伝統」にも、容易に区分することは出来ない。あるいは、これらの作品の登場によって、ようやく、前衛俳句がすでに完全に過去のものだということが顕在化したといってもいいのかもしれない。

6 コメント:

池田澄子 さんのコメント...

紗希さま
「『前衛俳句』の定義の必要についての覚書 ……二項対立の解体へ」読みました。
「シンポジウム中に、高柳重信の話がほとんど上がらないのを私は不思議に思ったが、ある人の認識では、『前衛俳句』の枠組みの中に彼は入っていないのかもしれない。」とあり、私も、そのあたりを不思議に思いながら聞いていました。が、その前の講演で金子兜太さんは、高柳重信さんについて重要な人として熱く語りました。
ー俳句空間ー豈weekly・3月14日号に、関悦史さんが記録を書いて下さっています。

神野紗希 さんのコメント...

澄子様>

>その前の講演で金子兜太さんは、高柳重信さんについて重要な人として熱く語りました。

わ、そうでした。ご指摘ありがとうございます。金子さんの講演は、私も非常に面白く伺いました。しかし、その裏にある思いや経てきた時間などは、感じられることはあってもそれと知ることはできず、澄子さんのお話など伺って、頷くところもあり、また考えさせられるところがありました。

本当は、高柳重信のことも含めて、私の考える「前衛俳句」についてまとめてみたかったのですが、それについてはきちんと調べてもっと考えて、個人的にまとめてみたいと思います。

豈weeklyの関さんの記録は本当に的確で、微細なところまで丁寧に再現されており、私も納得したり思い出したりしながら拝読しました。フラットだしエピソードも交えられていて、素敵な記録文だと思います。

さんのコメント...

河野紗希様

貴文興味深く拝読しました。分析視点が整理されており現在の世代の問題意識を明快につきだしておられるとおもいました(整理されすぎている感もありますが)。関悦史さんの会合記録(「俳句空間—豈—weekly」)と併せて読むと、「前衛俳句」発祥地とされる関西からみても共通の言葉と感覚で意見交換が出来るような気がします。
〈前衛俳句最高潮の時期、1930年代の「戦後」というイメージ自体貴女達の生まれるまえだから、この時代というのがあまりよくわからないでしょう?私はそのころ中学卒業して松山東高に入学したころ。俳句部の俳句甲子園もありませんでした。俳句なんて知りませんでした)。
 私が俳句をはじめたころ(高柳重信、中村草田男が亡くなられた1983年)に、既に二項代立の無意味さが取りざたされていました。そのころから(「前衛俳句は「ある程度のむかしに新しかった存在」として語られました。でも、前衛感覚を、体験的に語る作家は、まだお元気でした。
 我々の言説も、そのときどき俳壇では何が主な論点だったか、という、メディアの仕掛け方にどうしても左右されるのですが、「前衛俳句」が、伝統系の方々のなかで堂々とおもてだって議論されることはまずあり得ませんでした。(重信氏がいなくなられた後は特に、なぜかな?紗希さんはどうおもいますか)。
 しかるに、現在この問題は、あらためて、あなた方新世代によって総括されようとしています。これは終わらせようとしても、何かの折にふっと顕れる、そういう意味では現代俳句にとって普遍的テーマです。(これは、現代俳句の見果てぬ夢、とでも、いいましょうか。)

 「前衛俳句」が巧く位置づけられないその一つの理由は、発生当時の「前衛俳句」概念自体があいまいなまますすんでいて、当事者がその曖昧さを自覚してひきうけるものでもなく、またはっきり孤立を覚悟で「前衛」の自己規定をうけるのではなく、なし崩しに「結社化」したり、もともと権力志向がつよかったり、・・と言う具合にすすんできているこ友大きな原因です。それから、この言葉には夢と実際が混淆されています。
 また、作品的には圧倒的多数の花鳥諷詠派におおわれてしまって、いわゆる国民大衆が受け入れる俳句のイメージとおおきくへだたってきているのです。そういう「前衛俳句」の先輩達の理論的脆弱さに一つの根拠があるのです。(発想や技法に沢山の可能性を持ちながら、です。)
 
 
 関西はとくに紙質のわるいガリ版刷りの小同人誌ではじまっていますから、散逸解体したものもおおく、人脈もいりみだれてぐじゃぐじゃしております。 
 大手同人誌の「縄」で活躍した「前衛俳句」のマドンナであった八木三日女さんは重信氏に叱られていますが、1990年代にはいったころ、女史とお話ししたときにいみじくもおっしゃったことは、「私たちは俳句を作っているのであり〈前衛俳句〉というのはマスコミがつくったレッテルだ」というのです。
 鈴木木六林男さんも。わしは「社会性俳句」などといったことはない、とおっしゃっています。でも、「風」の大会の講演記録をよむと、かなりシンパシィを出していたし、思想的にこの方は時代への批評心のつよいかたです。
 少し踏み込んでゆこうとすると、こんな調子なので、当事者の拒否にであい、困惑したことが、たびたびありました。
 高柳重信氏は、「偽前衛派」云々という評文からもうかがわれるに、「前衛」と呼ばれることを峻拒しておられますね。このあたりの真意もわかりません。(推測でわかる気もしますが)
 
  では、あれはなんだったのか?

 もとっとも文学的な好意的な取り方をすれば、小さな器に盛るべき大きな夢、大きな物語への憧れが凝っていたのかも。
われわれの立論はこう言うところから
始まらねばなりません。

 紗希さん、この夢のカテゴリー・「ゼンエイハイク」を捨てるなんて言わずにあなたの学究生活、また俳句生活の生涯の潜在的なテーマにしてください。(堀本吟より)。

神野紗希 さんのコメント...

吟さま>お久しぶりです!コメントありがとうございます。

そうですね、私は、まさに「戦後」を知らない世代です。重信や草田男が亡くなった、その1983年が、私の生年です。物心ついたときには、ベルリンの壁もバブルも崩壊してました。だから、前衛俳句の時代の雰囲気というのはもちろん知りませんし、その名残に触れることもほとんどありませんでした。残念なことです。私の教授は、ちょうど前衛芸術が盛り上がっていたころに大学生活を送っていたらしく「あのころが一番面白かった」「色々なものが変わる実感があった」「君たちは(その時代を知らなくて)かわいそうだなあ」と、よく言います。

確かに、「前衛俳句」というのは、総括するのはなかなか大変だと思います。前衛俳句の担い手とされている本人たちがどう思っていたかということを、私は文献でしか知ることはできませんが、「偽前衛派」をはじめとして、本人たちはそう呼ばれることに反発があったのだということは感じます。
しかし、たいがいの史的用語は、本人たちの賛否にかかわらず、ジャーナリスティックにつけられたりしますし、私たちは現に「前衛俳句」といったときに、ある程度の括りを持っているわけですから、後続である私たちは、取りこぼしつつも、一体「前衛俳句」はなんだったのかをまとめていく必要があると、やはり思います。お互いの「前衛俳句」の定義をすり合わせながら、取りこぼしたところを何とか拾おうとして、そこで初めて「前衛俳句とは何か」という議論なのではないかと思います。

>紗希さん、この夢のカテゴリー・「ゼンエイハイク」を捨てるなんて言わずにあなたの学究生活、また俳句生活の生涯の潜在的なテーマにしてください。

ええと、つまり「葬る」のところが「捨てる」と解釈されたのだと思うのですが、まったくそんなつもりはなく、きちんと歴史として記述されてほしいと、そう思ったのです。それはもちろん「前衛俳句」の死ですから「葬る」ということではあるのだと思いますが、決して「捨てる」わけではありません。

言い忘れていた(というか読み返してみると全然書いてなかったなあと思いました)のですが、私は、前衛俳句(この定義がまたあれなのですが、とりあえずおおざっぱに言って)が大好きなのです。潜在的どころではなく、表だってテーマにしたいと思っています。大学では、新興俳句・前衛俳句を研究しているくらいです。こんなに面白い分野もありません。そして、こんなに胸打たれる報われなさもありません。大好きだからこそ、今の前衛俳句の信仰にも似た扱われ方に、少し疑問がわくのかもしれません。
本当に、資料も少なく、勉強量もまったく足りませんので、今頑張っているところです。また色々とお話伺う機会があればと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

最後に、

>「前衛俳句」が、伝統系の方々のなかで堂々とおもてだって議論されることはまずあり得ませんでした。(重信氏がいなくなられた後は特に、なぜかな?紗希さんはどうおもいますか)。

これについては、単純に、伝統系の人たちから見て、前衛俳句は面白いと思えなかったんじゃないでしょうか。「分からない」と。意義も面白さも感じないとなると、議論する必要性もない。単純にそういうことなんじゃないかなあ・・・どうなんでしょう。これもうかがってみたいところです。

長いコメントとなってしまいましたが、吟さん、ありがとうございました。

さんのコメント...

紗希さま。
楽しい真っ正面の反応を嬉しく拝見。私は今回の貴文を高く評価しています。この問題を論じる原則点の整理がじつにあざやかです。次のような切り返し方は、あなたの聡明さをしめしていますね。

〈しかし、たいがいの史的用語は、本人たちの賛否にかかわらず、ジャーナリスティックにつけられたりしますし、私たちは現に「前衛俳句」といったときに、ある程度の括りを持っているわけですから、後続である私たちは、取りこぼしつつも、一体「前衛俳句」はなんだったのかをまとめていく必要があると、やはり思います。お互いの「前衛俳句」の定義をすり合わせながら、取りこぼしたところを何とか拾おうとして、そこで初めて「前衛俳句とは何か」という議論なのではないかと思います。〉〈紗希)

つまり、何かのカテゴライズ(規定)は、それを経験中の当事者やその最盛期の時期には、本質がよくはわからぬところがある、ということです。「テキ」の方があんがいよくみぬいていたり、ね。
けれど。二項対立という関係も、レッテルを貼られることも、悪意さえなければ〈しばしば悪意が潜むから問題なのですが)、そのおさえ方によっては有効なのです。
そして、また、古い規範に基づく二項対立を解体してゆけば新しい、建設的な論点の対置が出来てくるかもしれません。今回の橋本さん達が企画したシンポジウムとその後のこういう総括が、その始まりになってくれればいいとおもっています。

貴女はいくぶんその二項対立の感覚をぬけ出していますから、こういう理屈が展開できるのでしょう。
私は、「その時代を知らないから」、ということで相手の思考をしりぞけるような意味で同時代経験をも持ちだしたのではありません。これも仮に対立点〈世代間の経験の格差)をつくっているだけです。作業仮説なのです。
私は、20代のあなたと60代の私が対等に渡り合う場をつくるために、時代や世代をもちだしているだけなので、気にされないでください。〈体験にとらわれないで、断言できる貴女の方があるいは決定的に有利なのです。)

 でも、本質的には現代にものされた作品や理論で分析できなければ過去は現代には活かされてきません。

 繰り返していっておきたいことは、出発当時から、自己規定が多元的だったということです。高濱虛子等が異端者を排除したので、弾かれた意識が集まったのだと思います。

 また、実感で自分は「Aだ」とおもうことと、自他共にみとめられた定式化された「A」の定義の間には、無限の「A」の像がしょうじます。高柳重信が「まだ見ぬ俳句」といい「偽前衛」といったり、安井浩司が「もどき」の観念を導入しなければならない、俳人個人にあっても原点の自覚自体に多元化しているのです。後世は、そのずれをふくめて、現在の定義がうみだされるのでしょう。ここが、前衛俳句論のむづかしいところだし、面白いところです。

コメントの限界を超えているのでこれ以上は書きませんが、がんばってね。〈堀本吟)

すし さんのコメント...

その後御中虫さんの登場がありましたが、「前衛」を冠するかどうかはともかく「前衛」というべきインパクトがありましたよね。
その辺どう論じられるのか興味がありますね。