2009-04-05

落選展の意図がわかりません 榮猿丸

「週刊俳句」のココがダメだ
落選展の意図がわかりません

榮 猿丸




落選展の意図がわかりません。読者としてはどう受け止めればよいのかとまどいます。この企画の着地点が見えません。

以下、感想。

「若い人の俳句が読めてよい」との声も聞きます。今の若い人がどういう俳句をつくっているかがよくわかる、と。

ある近しい俳人は「選考委員は生半可ではない覚悟を持って作品を選考している。選考する側のことも考えてほしい」と否定的です。

私は、この企画、あまり肯定的には受けとれない、というか、違和感があります。

元の賞に対してどういうスタンスなのだろう。ただ見せたい、というだけでは浅いのでは。表現する者として違和感があります。言葉が悪いですが、中には「週刊俳句はゴミ箱ではないでしょう」と言いたくなるものもあるので。

ぼく週刊俳句を愛してるんで、ちょっと厳しい言い方になってしまいました。週刊俳句の姿勢として、断らない、拒まないだろうし。それは良いことだと思ってますが、ネットの功罪みたいなものもあるのかな。ネットだからいい、ということでもない。作品を人に見られる、ということにもっと意識的になるべきだと思うのですが。

コメント欄も、なにか内輪でほめあってるように見えてしまいます。作品を人に見られる、という意識が低く、その代わり、コメント欄は、「(とくに本人に)見られている」意識が強く働いていて、表面をなぞるだけの感想に終わっている。ネットは、その当事者だけが見ているものじゃない。「それでいいんだ」というのであれば、週刊俳句の場でなくて、個人のブログでいいんじゃないでしょうか。

簡単に言うと、「週刊俳句」という場が、この企画ではうまく機能していない、ということに尽きるかもしれません。

とにかく、しっかりした企画意図を示してもらえれば納得できると思い、申し上げました。

これまでの落選展 ≫こちら

3 comments:

獅子鮟鱇 さんのコメント...

 漢詩人獅子鮟鱇です。

>ある近しい俳人は「選考委員は生半可ではない・・・云々

 そういうこともあるか、とも思いますが、一読者としては、落選展に投稿される俳人の皆さんの志に感じ入るところがあり、私はありがたい企画だと感謝しています。
 落選展を通じて知ることのできた俳人のみなさん、決してひとりやふたりではなく、私の見聞を広めてくれましたので・・・
 「角川」の場合、おおむね四十人にお一人、ということになるのでしょうか、落選展に投稿されるということは、俳句を愛されるがゆえのとても奇特なことと思っています。
 その志に照らせば、作品の巧拙や深い浅いは、それを知りそれがお好きな人が論じればよいこと、それらが反故であるわけはありません、読者は、作品の巧拙や深浅を知る選良の仕事ばかりを喜ぶものではありませんから。

さるまる さんのコメント...

獅子鮟鱇さま

コメントありがとうございます。

なるほど、そのとおりですね。
いわゆる「落選展」というものの魅力は、投稿される方の志と、巧い句拙い句、さまざまな人の句が雑多に並ぶたのしさ、この2点が大きいように思います。そういうのを見るのはぼくも好きです。

でも、この企画にはひっかかるものがある。
たとえば、いちばんわかりやすいのは、選考結果に不服だ、他にいい作品あるだろう、よく見てみろ、という姿勢。そういう意図が明確であれば、読者としても読みやすいし、コメントもしやすい。

しかし、選考結果に不服ありません、でも私達の作品をみてください、という姿勢で作品を提示されても、どう受けとっていいかとまどってしまいます。志が見えにくいというか、本来に投稿した元の賞に対して、選考委員(予選含む)に対してどのようなスタンスで投稿されているのかが見えにくい。落選展に出すというのは、ある意味、本来の賞に出すことよりも志がいることだと思います。でも、この企画からはその志が見えにくい気がする。
これは、参加者への批判ではありません。こういう作品を個人的に見るのはぜんぜんオッケーですが、「落選展」としてネットという開かれた場で見せられると、どう反応していいかわからない、ということなので。ぼくだけかもしれませんが。

ゴミ箱云々はちょっと言い過ぎだと自分でも思いますが、でも、ただ、「落ちたんで出してみました」というふうにしかみえない句は、やっぱり週刊俳句がかわいそうに思えてしまいます。また、「作品」として発表する以上は、激賞されることもゴミだとかクズだとか言われることも引き受ける覚悟があるということでしょうから、あえて感じたままに言いました。というか、こういうことが言えるのが落選展の魅力の一つではないかとも思います。

くりかえしになりますが、獅子鮟鱇さんのコメントには納得しました。でもひっかかる。これは趣味の問題かもしれません。まとまりなくすみません。

獅子鮟鱇 さんのコメント...

猿丸様

 獅子鮟鱇です。ご返事をいただき、恐縮です。

>選考結果に不服だ、他にいい作品あるだろう、よく見てみろ、という姿勢。そういう意図が明確であれば、読者としても読みやすいし、コメントもしやすい。・・・①
>選考結果に不服ありません、でも私達の作品をみてください、という姿勢で作品を提示されても、どう受けとっていいかとまどってしまいます。・・・②

 ①については同感です。しかし、19世紀のフランス画壇の「落選展」の先例を見れば、始まって2年に満たない週刊俳句の「落選展」が、①の立場に立つのはまだまだ難しいのではないでしょうか。フランス画壇における「落選展」が始まったのは1830年代、それが「一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む」として、サロンの選考結果に対する不服を表明するものとなったのは、1863年です。(以上、ウィキペディア情報です)
 30年余。この間の「落選展」は、さまざまなグループあるいは個人によって、さまざまな形で、多かれ少なかれ②の立場で開かれていたのではないでしょうか。
 角川俳句賞でみれば、2007年の落選展が15人、2008年が13人、応募800余人に較べればの少数精鋭の、勇気ある行動だと思います。選考結果に不服があるかどうか、ということよりも、落選展に投稿すれば、選考に不服なのか、と受け取られかねない、角川や選者や読者から、そう勘ぐられかねない、そういうリスクを犯しながらの投稿であるからです。不服だというなら、はじめから俳句賞に、いさぎよく、応募しなければいいだろう、とかの、レベルの低いあげつらいにも、晒されているかも知れない。
 小生、そういう勘ぐりや低レベルの倫理感が、落選展出展の作品そのものの味読の邪魔にならないことを願うばかりですが、そのリスクを顧みずに作品を読んでみてくれ、という落選展のみなさんの心意気、繰り返しになりますが、敬服しています。

>でもひっかかる。これは趣味の問題かもしれません。

 趣味の問題ではなく、猿丸さんには猿丸さんの志があるから、ではないでしょうか。ただ、落選展という集合体の中での志と、ひとりひとりの俳人としての志は、同じ船のこととしては語れないのだろうと愚考します。集合体では、呉越同舟というようなことも起こりますから。