2009-05-31

『俳句』2009年6月号を読む さいばら天気

〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年6月号を読む

さいばら天気


現代俳句の挑戦・第6回・俳句に現れる現代 高柳克弘 p164-

『俳句界』2009年4月号の特集「俳句は〝現代〟をそう詠んでいるのか?」に触れ、「用語や素材によって現代性を担保する方法には、限界がある」とする。その理由の一つは季語の問題。

季題が主題となる俳句では「季語の約束事が通用しない現代社会の時事用語との間に、必然的に齟齬が生じる(…)。

もうひとつは「現実問題として、平俗と陳腐にはまりこみやすい」こと。

ジャンルにかかわらず、時事用語はマスメディアの散文的言説の中で都合よく機能するために作り出された言葉であり、意味やメッセージを重視しない韻文の中では異物としか存在しないのである。

「異物」との指摘は的確である。ここからは私の見解だが、その「異物性」をハンドリングしないかぎりは、平俗・陳腐に終わる。時事用語を、批評的な操作なしに句に盛り込むから、平俗・陳腐なのだ。ここは、高柳氏と私とで見解にわずかな相違がある。異物だから限界があるとする高柳氏。異物性を操作すれば、限界ではなくなるとする私。

ともあれ、当該特集を手際よく論評してあり、今月号中では最も興味深い記事のひとつ(*1)。特に、小誌『週刊俳句』第89号の新年詠の一句、

  人類に空爆のある雑煮かな 関悦史

を取り上げた部分は、手前味噌ではなく必読と申し上げておきます。


合評鼎談 本井英・今井聖・高田正子 p173-

いわゆるバトル、本井・高田 vs 今井という図式が、すっかり読者に定着した感のある合評鼎談。自らの下世話を恥じつつ自戒しつつも、「ぶつかる」場面を待ちながら読み進めている自分がいます(読者全般、そうだと信じています)。

今回は、西村和子「稜線のおぼおぼしきは猟期果つ」に関するヒトコマ。

今井 (…)例えば〈猟期果つ〉という実感を、僕らは山を見ていて、持つかということなのですが。猟が日常的に行われていた時代なら、ああ、猟期が終わったと思うが、こういう句は季語「猟期果つ」ということを下地に置いて、〈稜線のおぼおぼしき〉が成り立っているわけで。そもそも「猟期果つ」という自然から受け取る感動がウソっぽいのです。
本井 それをウソと言ったら、俳句という文芸そのものが全部ウソになってしまう。しかも、あなたの言うような「真実現実俺一人」というふうにやっていくと、非常に行動範囲の狭い人はその狭い中でしか言葉と遊べなくなってくるよ。

ウソとウソっぽさは別のものだし、今井氏がこの句に関して言っているのは、本井氏の言う「真実現実俺一人」ではない(今井氏、別の機会には事実そうなのですが)ので、この部分は、本井氏の過剰拒否反応のように思えるが、それはそれとして、私自身は、どちらの意見にもうなずいてしまいます。

「猟期果つ」はウソっぽい。まあ、実感はないよなあ。

そんなこと言っていたら言葉と遊べない。そうだよなあ。

句を語るに、随所で、お互い相容れない2つの反駁しあう見解が提示されるのは、御本人たちにはともかくとして、読者には悪いことではありません。


新刊サロン p258-

充実です。村上鞆彦による榎本好宏句集『祭詩』評、池田澄子による小川軽舟『手帖』評、秋尾敏による井上弘美句集『汀』評、山西雅子による岸本尚毅『俳句の力学』評。



(*1)ただ、この記事の本筋の流れとは別に、あれれ?とひっかかった箇所が一箇所ある。

(…)テクスト論を俳句にあてはめるときには、注意を要する。そもそもテクストとしての独立性が小説などに比べて薄弱な俳句は、文脈によって想定以上に大きく左右され、ときに歪んだ解釈を招いてしまうこともある。

「テクストとしての独立性」が薄弱かどうかは微妙な問題で、作者からの自律という意味では、「小説など」に比べてテクストとして扱いやすい。「文脈」(コンテクスト)を射程に入れるのがテクスト論だから、(作者の)想定以上に影響を与える文脈があるなら、それこそテクスト論の守備範囲となる(それを排し、作者の想定内に「読み」を限定せよ、というなら、それは、高柳氏の挙げているロラン・バルト「作者の死」以前の批評(=鑑賞)に戻れ、ということになる。

とはいえ、高柳氏の「注意を要する」との指摘は、理解できる。テキスト論は、なにがどうなったのか、テクスト(字面)だけを独立させ、解釈者の勝手気儘な解釈に任せるものであるといった誤解が広く行き渡っているようなのだ。その意味での注意。

テクスト論は簡単に言えば、「作者の意図」を探り当てる推理ゲームのような作業をやめる、それによって、読むことの豊かさの可能性が広がるということで、その場合の「読み」には、「文脈」もとうぜん含まれる。

それまでの、例えば、作者が何歳でどこどこに旅したときに何何川を眺めて作った句で、その頃、作者は肉親を亡くしたばかりで、おまけに職場での悩みを抱えていたので、この句はどうのこうの、といった、刑事か探偵か精神科医のような読みに集中するのではなく、幅広いテクスト理解、コンテクスト理解を動員することが可能となるということで、それは、解釈者の勝手な妄想や連想も自由、という意味ではない。

さてそこで、「作者の意図」が作品(句)にとってさほど重要でないのが、俳句の大きな特徴ではなかったか。そうなら、俳句とテクスト論の相性は良いことになる。だからといってテクスト論を推奨するのではないが。

なお、念のために書いておくと、高柳氏は、このテクスト論への言及から、テクスト論を否定するのではなく(やや流れが込み入っている。この部分は時事俳句という問題の直接の範囲ではない)、「時代状況」に沿って偏向した読みが為されることへの警鐘へと話が帰結する。


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3 コメント:

高柳克弘 さんのコメント...

さいばら天気さま

いつも週刊俳句、面白く読ませていただいています。拙稿についてのご指摘、ありがとうございます。

〉さてそこで、「作者の意図」が作品(句)にとってさほど重要でないのが、俳句の大きな特徴ではなかったか。そうなら、俳句とテクスト論の相性は良いことになる。

私も基本的なスタンスとしては、これに同感です。ですが、いわゆる人間探求派や自由律俳句の一部の作品を読むに当たって、一句にこめられた作者の意図を無視してよいのかといえば、必ずしもそうとはいえないでしょう。たとえば「ほしいまま旅したまひき西行忌 波郷」といった句は、一句の向こうに作者石田波郷を想定することではじめて、病に苛まれた人生と「西行」の一生とを対比させる趣好がはっきりしてきます。「テクスト論を俳句にあてはめるときには注意を要する」と書いたのは、こんな意図からでした。

「作品の発話者(作中主体)=作者」という公式が作品批評において一般化していること、それに伴って、さいばらさんがおっしゃる「刑事か探偵か精神科医のような読み」が根付いてしまっている状況に対しては、私自身も疑問に思うことが多いです。一句一句の表現を、もっと愚鈍なまでに精緻に読み込んでいくこと……すでに終局した観のあるテクスト論ですが、今の俳句がそこから学べることは、けっして少なくないと思っています。

天気 さんのコメント...

高柳さん、コメントをありがとうございます。『俳句』誌での連載、いつも楽しみに読ませていただいています。

些末な引っ掛かり箇所、疑問を挙げて長々と脚注を付けてしまいましたが、テクスト論に関して、高柳さんと大きく異なる見解をもっているわけではありません。近いと思います。

テクスト分析は申すまでもなく目的ではなく手法のひとつ。また、従来の読み方を(一部否定するものではあっても全面的に)否定するものでも破棄するものでもないと考えます。読みに新しい「側面」「層」が加えられるという捉え方でいます。

なお、手法ですから「終わり」も何もないとも思っています。文化流行としての終わりはあっても、個人=読者にとっては、流行を追ってそれ消費する(終わる)より、抽斗を増やすと思うほうが楽しいです(もちろん職業評論家なら、文化流行にも目を配ること=マーケティングが必要でしょうが、そうしたたぐいの目端の利かせ方は、けっして楽しいものではありません(為念:高柳さんが職業評論家だと言うのではありません。俳句の現在から未来にかけて重要な評論を為していく人とは思っていますが)。

作者の意図という面では、「無視」との態度とは捉えず、その意図もコンテクストのひとつと考えています(このあたりは私個人の見解かもしれなせん。ちなみに、意図を無視した、解釈者の連想ゲームのようなテクスト分析もまた、テクスト論の暴走として不毛と考えています)。従来の作者尊重=作者の意図当てゲームが、だれか(作者)講演を椅子に坐ってただただ傾聴する態度とすれば、(私の考える)テクスト分析は、講演者とそれを聞いている人の外側に立って、講演内容とその受容について、読み解いていく態度、と譬えられるでしょうか。

作者(author)のオーソリティの強制力から、ちょっと自由に、というのがテクスト分析。しかし考えてみれば、俳句の場合、ふだんの句会で、作者名を明かさずにやる披講が、単なる評価を超える、というか、評価に収まりきらない批評を含むとき、カジュアルなテクスト分析をやっていることにもなります。その意味でも、句会はつくづくスリリングで愉快な場です。

ながながとすみません。

 ●

で、話題からは離れた余談、一般的な希望ですが、「さいばら天気様」の「様」は、やめてw
「さん」がいいですねえ、週刊俳句では。

私は原則どなたにも「さん」付けで行かせていただきますが、それで気を悪くされる方がいらっしゃたら、ごめんなさい、です。

週刊俳句は、1階に受付のあるビルとはいえず、しもたや。これからの季節なら縁台で団扇片手に集まる感じがいいんじゃないでしょうか。

高柳克弘 さんのコメント...

天気さん

コメントをありがとうございます。作者の意図がどのように一句の読みにかかわってくるのか、考えを深める機会を与えていただきました。今回はテクスト論云々を語るのが主眼ではありませんでしたが、いつかあらためてこの問題について書いてみたいと思います。

〉縁台で団扇片手に

脇にはビールもあるといいですね。またご一緒できる機会を楽しみにしてます。