2009-05-17

成分表28 アイロニー 上田信治

成分表28 アイロニー

上田信治


初出:『里』2008年5月号



高校生のころ、友人が出した、ちょっとしたアイデア。

テレビは、出演している誰かを、自分の肉親だと思いながら見ると、趣きが深くなる。その友人は、その画面中の誰かを「自分のかわいそうなお父さん」だと思って見ると特にいい、と言っていた。

どんな番組も「かわいそうなお父さん」が出ていると思うと、涙なしには見られない。ああ、また「お父さん」が記者会見で事務的なことを言っている。ああ、また「お父さん」の世界征服の野望がだめになる。

ノイローゼのゴリラになったつもりでテレビを見るとすごく面白い、ということも彼から聞いた。当時、どこかの動物園で心身不調のゴリラにテレビを見せている、というニュースがあったのだ。

画面に映るすべてを、ノイローゼのゴリラとして見る。虚心に。そこに映っているものの意味は、ゴリラなので、ほとんど分からないが、ときたま動物が映るので、低くうなってみたりする。心が癒されるような気がする。

休み時間、二人で、教室の後ろの戸口を、水族館の回遊水槽に見立てて過ごしたこともあった。

廊下を通る生徒たちが魚である。それはもう、いろいろな魚が通る。これは自分の発案で、けっこう彼を喜ばせた。

要するに、二人とも退屈で退屈でしかたなかったのだろう。

そうやって遊ぶことは、退屈に対する、高校生なりのアイロニーだったのかもしれない。言い換えれば、消極的抵抗のような。

退屈な状況を、主体的にはどうにもできない。

見ていることしかできないので、じゃあもっと「見ているだけ」になってやろう、そうしたら、いっそ、退屈すぎて笑えるんじゃないか。それは、この「負け」的状況を、いっとき輝かせることだと、言えるんじゃないか。

アイロニーは「やられたらやりかえす」ための武器ではない。むしろ逆に、その「やられている」状況を味わいつくすための、自己本位の道具だ。

「やられて」やりかえすことは、多くの場合しかたがないので、あきれて、笑えるようにふるまって、悲しむのだ。

じゅうろくささげ昔しゅるしゅる焼夷弾  池田澄子


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