2009-05-17

林田紀音夫全句集拾読 067 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
067




野口 裕




瓦礫また瓦礫テレビそのつづき

平成八年、「海程」発表句。『悲傷と鎮魂─阪神大震災を詠む』に、読んでからずっと気になっている一句がある。

 テレビ俳句は詠まじされどもされどの冬(林翔)

被災地の様子は、マスメディアを通してしか遠隔地に住む人にはわからない。たとえば、テレビを見ればそれが大事件だとすぐ分かる。しかし、それにすぐに反応するのはどうか。マスメディアの加工した事実をそのまま受け入れていいのか。どうしても、そうした疑念を吹き払えないままの作句活動になるだろう。そうした気分がよく出ている句なので記憶に残っている。

では、大事件に巻き込まれ、被災した側の人間にとって、マスメディアの伝える事実はどう見えるのか。林田紀音夫の提出した回答がこれである。体験と報道される事実との間にはぬぐえない違和感が残る。しかし体験を確認したい衝動から、テレビを見ずにはいられない気分をも伝えている句だと思う。

なお、私も激震に直撃された地域からやや離れた地域に住んでいるので確定的なことは言えないが、当時、電気の復旧は比較的早く、ガス・水道が遅れていた記憶がある。したがって、被災した現場にいてテレビを見ている図は、あり得た話であると思う。句の前半と後半のずれている時間を無理矢理くっつけたのではないはずだ。

 

洗顔の水何ごともなく消える

平成八年、「海程」発表句。前後の震災の句に挟まれて、それこそ何ごともない顔でこの句がある。震災後、水の復旧が遅れていたことがこの句の背景にあるだろう。日常が非日常化している状況で、今まで無意識に行っていた動作をあらためて見つめている。

五七五は、無意識化している生活の襞を覚醒させる作用を持つ。そのことを、端的にこの句は示す。

 

枯葉枯枝みな兵爨の彼の日より
取りとめもない雨終の小糠雨

平成九年に最後の「海程」発表句が十句並ぶ。その最後の二句。年譜によると、阪神大震災のあった一年後、平成八年に句作自体を止めている。「爨」は、かしぐ、炊事のこと。彼にとっての戦後はここまで続いていた。何ら結論の見えぬまま終わろうとしている一生だった。そうした気分を引きずっている。

『林田紀音夫全句集』は、これで約半分終了。残り半分には、『花曜』発表句と、未発表句が年代順に並んでいる。さらに、のんびりと行く。

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