2009-06-14

林田紀音夫全句集拾読 071 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
071




野口 裕





柩より軽く夕べの自転車押す

昭和五十二年「花曜」発表句。自転車を押すとなると、人通りの多い商店街か、あるいは上り坂か。ちょっとした用事を自転車で済ませての家路の雰囲気。作者の注意は外界に向かわず、追憶に向かう。柩と自転車の組み合わせが意外であると同時に、若干の余裕を感じさせる。死を取り扱いながらかつてのような悲壮感はない。

 

終日雲を遊ばせている風邪の軒

昭和五十二年「花曜」発表句。風邪気味で家に籠もっていると、窓から見上げた軒越しの雲が妙に意味ありげに見える。雲の動きは何を意味するのか?などと考えているうちに一日が過ぎた。上の六音が悠々と始まるのに、下の五音が佶屈した言い方。午後の穏やかな日差しと、急激な夕暮れとの対比を連想させる。


電柱となるまで長く横たわる

昭和五十二年「花曜」発表句。彼の句には、「隅占めてうどんの箸を割り損ず」の系譜と、「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」の系譜がある。しかし、うまく混淆している句はそれほどない。これは珍しい成功例。笑いがこみ上げてくるような感覚と、疲れ切った体感とが同時に押し寄せてくるようだ。

 

梵鐘はくらがりを抱く昼の月

昭和五十三年「花曜」発表句。鐘が鳴っているような印象を受けないので、きっかけはわからない。何かの拍子に、梵鐘に目をやる。鐘の内部に思いが至る。鐘のはるかを眺めると、昼の月がある。傾きかけた昼月は、鐘の内部を反映するように、いびつだ。あるいはそのような景が脳裏に思い浮かぶ。どこまでが眼前にあり、どこまでが脳裏にあるかは判然としない。捉えきれないもどかしさ。それは作者のものであり、読者のものでもある。

第二句集以後の紀音夫には、いわゆる抹香臭い句が頻出する。少々閉口するところもある。閉口しつつ詠んでいる内、生者の中に死者を飼い慣らす習俗としての仏教に思い当たる。彼の句は、悟りや救いとは無縁に感じる。あくまで死に思いを起こすための装置なのだ。

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