ポストモダンについて 今言えそうなこと
上田信治
「里」2009年4月号掲載の「成分表」で、ポストモダンのことを書きました。
「終わった流行現象」であるということを、匂わせる書き方をしてしまったのですが、じつは、ポストモダン的表現には個人的に好感を持っていて、ドナルド・バーセルミなど、最近は読み返すこともありませんが、相当面白かったな、と思っています。
そのあたりのニュアンスは、来年「週刊俳句」に転載するときに、すこし書き直そうと思っていたのですが、ここのところ、いくつかのブログで触れていただき(紗希さんブログ/天気さんウラハイ1/荻原裕幸さんブログ/天気さんウラハイ2)、なんて言うんでしょう、延焼? みたいなことになってしまった。
そこで、「里」誌のご厚意により、少し早めにその回の「成分表」を転載し、その話題について、思っていることを述べることにします。
ポストモダンのことを書いたのは、以前『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』(高田明典 夏目書房 2005)という本を読んで、たいへん感心したことがあったからです。
最近、相次いで各社から思想関連の新書を出している著者ですが、本書はその啓蒙的精神がいかんなく発揮された好著で、従来のイメージや用語の混乱を排し、ポストモダニズムを「現在においてこそ必要とされる思想の枠組み」であると位置づけています。
私たちは「ポストモダニズム」という知性の武器を些細な理由で捨ててしまいました。私はこれを「昼行灯状態」と呼んでいます。社会に活力があり、進歩の夢を見ているときに「懐中電灯」や「行灯」は必要ありません(正直、当時出された多くのポストモダン関連の書籍が、「昼行灯」のようなものが多かったというのも事実だと思います)。ポストモダニズムという思想は「暗闇を照らす小さな行灯」です。それは、社会が暗闇になったときにこそ意味を持つものだと言えます。そして、それが今です。(前掲書 p.2)
このポストモダニズムの実用性についての、前向きな評価の当否はおくとして、とりあえず「ポストモダン」とその周辺の概念について、本書にしたがって、箇条書きでざっくりと(正確な引用ではなく)まとめるとーー。
・ポストモダンと呼ばれるものには、以下のものがあり、区別する必要がある。(同 p.3)
ポストモダニティ(ポストモダン状況)1970年ごろに端を発する時代状況。
ポストモダニズム(ポストモダン思想)ポストモダン状況の要請によって登場した思想的枠組み。
ポストモダン(思潮における時代区分)「モダンの後に位置する(今は分からない)何か」
ポストモダンX(ポストモダン建築、ポストモダン文学、ポスト構造主義等の、ポストモダンの要素を持つ文化的現象)本稿ではポストモダン的表現と呼ぶ。(同 p.124)
・ポストモダニティとは、社会が経済的に豊かになり、そこから先の実現すべき「価値」を共有できなくなった状況のこと。(同 p.40)
・ポストモダニティは事実として存在している。この状況の有無について議論することは、現代では愚行に分類される。(同 p.160)
・ポストモダニズムとは、つまるところ、人びとがそれぞれ個別の「価値」を持つ状況を想定して、その上で集団としてうまくやっていく道をさぐる思想である。(同 p.62)
・ポストモダニズムは、直接「価値」を創出するのではなく、「価値を創出、伝搬する枠組み」を提示することを、目標とする。(同 p.130他)
・ポストモダン的表現は、選択肢を提示する。選択肢の提示によって「鑑賞者それぞれの個別の価値」を創出せしめることを目標とする。(同 p.113)
・現代においては「見る側」が主体となる芸術運動が必要である。(同 p.286)
・鑑賞者こそ、価値や精神を創出する主体である。(同 p.288)
・ポストモダン的表現において重要なものは、価値の表現ではなく「価値判断を強制もしくは惹起する力」である。(同 p.127)
・人の名前をど忘れしたときなどに、でたらめの名前を言っているうちに、何かのきっかけで「涌き起こるように」それを思い出すことがあるように。
・ポストモダン的表現の目標は、その提示によって、個人が、自分自身のための「価値」や「物語」に思い当たることである。(同 p.122)
・人びとが「古典」や「モダニズム」を、自覚的に、あえて「選択」するのであれば、ポストモダニズムとしては、けっこうなことだと考える。
・表現者個人は、確固とした「価値」を所有していなければならない。しかし、それが鑑賞者の価値と一致することは、期待できない。(同 p.128他)
・ポストモダニズムは、「価値」を選択する個人が集団内で増加することを「心ひそかに」期待する。(同 p.245)
・価値の対立が存在する、そのことに直面しつづけることのみが重要である。(同 p.310)
さて。「ポストモダニズム」とは以上にまとめた「これ」なのだ、と割り切って(*1)、以下は、筆者(上田)の意見にウエイトをおいて、さらに箇条書きを続けます。
・「現代」が、単なる「今という時代」の別名であれば、それを「ポストモダン」と呼ぶことは、言葉の定義上できない。「今という時代」の次に来るのは、常に、次の「今という時代」だから。「現代」のあとに来るものは「現代」。「モダン」のあとに来るものは「モダン」。(同 p.66)
・人間社会、あるいは文明の進歩という歴史意識の、外に立とうとするのが「ポストモダニズム」。(同 p.49)
・「ポストモダン」とは、「歴史の先端」としての「現代」の、次に来るもの。進歩の幻想の終わりの、その次に来るとされている逃げ水のようなもの。
・だから、幻想としての「モダン」が、ほんとうに潰えてしまったら「ポストモダン」という語は、意味を成さない。
・前掲本における高田のスタンスは、まだモダニティが生き延びている内に、その崩壊という事態に備える、その道具としてのポストモダニズムの見直しということになるだろう。
ここから、ようやく話は、俳句とポストモダニズムに至る。
・「無意識のポストモダニズム」は、多くのすぐれた俳人に共有される素質であるように思う。
・ポストモダン的表現として読める作品を、俳句に見出すことは容易である。波多野爽波〈伐りし竹ねかせてありて少し坂〉〈酢蛸嚙みつつ大根の花を見る〉とか、高濱虚子〈蠅叩にはじまり蠅叩に終る〉〈襖みなはづして鴨居縦横に〉とか。いや、わざとあまり有名じゃない句から選っていますが。もっと言えば〈ソース瓶汚れて立てる野分かな〉とか〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉とか。(*2)
・それは俳人が、他ジャンルの文学者に比べて、近代的進歩の幻想から自由だからかもしれないし。
・定型それ自体が、定型に対する「問い」を生むものだからかもしれない。(*3)
・近現代人にとっては、俳句が、そもそも古典的詩形というものを選択するところから、「あえて」「わざわざ」やるものだからかもしれない。
・「これが俳句だ(と思う)!→玉砕」というプロセスを経ない創造などありえないのだから、伝統や実感を疑わないことは、かえってそれらを蔑ろにすることなのだということは、確認しておきたい。
さて。
・ポストモダニズムは「メタ」なアプローチを通して表現される。「メタ」なものは「わざとやってます」というメッセージ込みで伝達されなかった場合、しばしば、単に、スルーされて終わる。
・だから「無意識のポストモダニズム」から価値を創出するためには、鑑賞者のより強い関与が必要。
・一つの「作品」は、一つの「その作品が前提とする枠組み」を提示するものだーーというような読み方は、必ずしも常識ではないから。
・坪内稔典の句に見られる商品名や過剰な通俗性は、「わざとやってます」という文脈で理解されるべき。
・坪内稔典が、バーセルミや高橋源一郎あるいはねじめ正一あたりを意識していたかどうかは、分からないけれど。
・〈三月の甘納豆のうふふふふ〉は、みごとにポストモダン的なものだ。群を抜いて(*4)。
・氏の他の代表作と比べても、この句には異質な肌合いがある。「前提とする枠組み」あるいは「その拠ってきたる原理」「何を良しとして書けばこういう句ができるのか」…といったものが、よく分からないのだ。「既知の何かをよりどころに書かれた感じがしない」というか。
・この句が連作の一本であったことを思い出すと、ああ、そのせいか、と納得しそうになる。しかし、読み直してみると、他の11本は、なんというか、ぜんぜん良くないのだった。(*5)
・〈三月〉の句にだけ「とうてい人が作ったとは思えないような感触」がある。
・他の代表作、たとえば〈飯噴いてあなたこなたで倒れる犀〉は、まったくモダニズム詩の一行だし、〈朝潮がどっと負けます曼珠沙華〉は、かなりスゴイが、この季語はよく分かる。〈大阪の落花落日モツを焼く〉の市井の情景は古典的。〈春風に母死ぬ龍角散が散り〉の通俗に対するアプローチは、つかこうへい芝居のクライマックスにも似て、非常にモダン。個々には、それぞれモダン以前の文脈で、読める。
・しかし、この通俗性が、一貫して、「作者の快感の範囲を越えて」「わざと」「やり過ぎ」て書かれている可能性を考えると(まとめて読むと、そうとしか思えなくなってくる)、そこには、はっきりポストモダン的なアプローチが、見て取れる。
・つまりここで作家は、へんななものを書こうとして、へんなものを書いている。
・実際、坪内は著書の中で、歌人の三枝昂之による(俵万智とくらべての)坪内評「きわめて意識的」「玄人が徹底的に意識した軽み」「厚化粧」「それは詩の強みになる」という発言を引いて、「言われてみればそのとおりだという気がする」と、その発言を肯んじている。(「サラダと甘納豆」1987『俳句 口誦と片言』p.29)
・一方、同じ本の中で、作家は、これらの句のいたって素直な受容のされかた、すなわち〈うふふふふ〉に子どもが吹き出したとか、あるいは、ある家族が相撲中継を見ながら〈朝潮が〉と唱えているということを、又いたって「素直に」受容している。(「俳句のたのしさ」1987 同書 p.8)。
・確かにそれは、氏の作品によって、まっさらの読者が自分だけの「価値」を発見したということなのだから、ポストモダン的にも喜ぶべきことだ。
・その幸福な関係の成就は、作家自身に、商品名の取り込み、口語、標語やことわざへの接近といった方法を、「素直に」良いものとして認めさせたようだ。
・その意味で、稔典さんもまた「無意識」の人になったのかもしれない。
・ところで、ポストモダン的方法をアイロニーや「メタ」意識抜きで、採用することは、ひとつの危うさを伴う。
・メタ意識は、たとえば「真面目に不真面目をやる」とか「人を食ったような」とか「真情あふれる軽薄さ」というような、態度と意識の緊張によって保たれる。その緊張が失われるとき(それは容易に失われるのだが)、ポストモダン的表現は、際限なく「甘く」なりうる。
・内面の事情は推し量ることしかできないが、近年の坪内氏の作品に、筆者は期待しつつも、なかなか乗れないことが多いのだった。
・もう一つ、「船団」内部から、もう〈甘納豆〉みたいな句は出てこないんじゃないかと想像されるのは、「船団」というグループが、わりとおだやかというか、集団内部の価値に随順的なイメージがあるからだ。それは、あまりポストモダン的な心性ではないので。
さて。
・ポストモダン的「鑑賞者」になることは、その人それぞれのやり方で、今日からでも可能である。自分が「価値」を選択し、創造することに意識的であれば。ただただ、わがままであれば。
・〈甘納豆〉のような、「俳句かよ?」「人間かよ?」みたいな句。しかも「俳句だ!」「人間だ!」という感動がおとずれるような句を読みたいものだと、わがままな読者の自分は思う。
・もっとも、人と共有できない「読み」(「作品」「価値」)の、共有できなさに開き直ってしまうことは、あまり幸せなことではないような気がする。
・前掲書で著者は、ポストモダンの枠組みの中でも、「表現とは常に「価値の表現」」(p.154)であることは認めているし、「表現は鑑賞者がそれを受けとり、何らかの判断を下したときに完成する」(p.127)ということも言っている。
・もう一つ踏み込んで、「価値の共有のないところに、表現は完成しない」とは言えないか。それを言うと、もうポストモダニズムではなくなってしまうかもしれないのだが。
・作品が100%、「きっかけ」「素地」「枠組み」であるとしたら、作品は、何か別のもののための「具」でしかないが、そんなことは、作家の本音としてありえない。ポストモダニストなら、それ以外のやり方は不可能なんだと言うかもしれないが・・・。
・すでに価値とされているものへの「もたれ掛かり」をなるべく少なくし、価値の共有が「事後的に」発生するように作る(読む)こと。
・今のところ、それが、もっとも可能で有効なポストモダン的態度ではないか、と思う。
ところで。
・俳句に、ポストモダンがなかった、とか来なかったという話は、自分には、もうひとつ面白くない。それは、俳句が80年代にサブカルになり損ねた、というだけのことではないのか。
・それは「なぜ日本には市民革命が起きなかったのか?」とか「どうしてウチにはカラーテレビが来ないの?」といったような話にきこえる。「よそはよそ!ウチはウチ!」「なんでも欲しがるんじゃありません!」と言われて終わり、のような。
・ところで、坪内稔典が志向していたのは、正にその、俳句のサブカル化だったように思えてならない(ここは、ちょっと、分かる方だけ分かって下さい)。さっき、ねじめ正一の名前をあげたのは、そういう意味。
・ポストモダニティの影響下の心性、素材、技法 etc. について言えば、それは要するに「ポスモダンっぽさ」の「取り入れ」であり、個々の作家のレベルで語られるべきテーマであって(山岳俳句とかの類)、俳句自体の課題ではないだろう。
・「表現を先導する表現理論」という20世紀的なものの、今のところの最終走者がポストモダニズムであった(目の前は、とうに通過してしまったわけですが)。
・ところで、今月の「芸術新潮」(2009.6)はフィリップ・ジョンソン特集。モダニズムとポストモダン、両方のスタイルで活躍した建築家なんですが、その人の作ったポストモダン建築とされているビルが、写真で見る限りですが、「醜くない」。こんなの、ありか、と思った。
・この人のポストモダン建築は、大人気で、稼ぎまくったらしい。
・つまりこの人は、価値観の提示と同時に、デザインの心地よさによって、人びとを説得しおおせてしまったわけです。
・フィリップ・ジョンソンは、99歳まで生きて、最晩年には脱構築主義的作風(コールハースとかそういうやつ)の設計にふけっていたらしい。
・「理論」は、才能にとっては、オモチャでしかないのかもしれません。
*1 論評する立場にいるものとして「区分」を明示し、その区分に分類されるものとされないものを明確にするのは「責任」だと考えます。
(…)残念なことに、このような立場を認識している論者は極めて少数であるように思えます。(…)挙げ句の果てが「ポストモダンという区分自体、明確なものではない」とか書いてます…馬鹿ですか?
(…)一つの「概念」が明確でないことなど、少なくとも思想の分野では「あり得ません」。(前掲書 p.162)
*2
ポストモダン的表現の三つの特徴。
1)鑑賞者の「価値判断」を要求する。
2)鑑賞者の価値判断に対して積極的な働きかけをしない。
3)鑑賞者の価値判断に影響する可能性のある要素を排除する。 (高田前掲書 p.130)
「期せずしてポストモダンXとして読まれる作品を書いてしまった作家」 は「ポストモダンの小説家」ではありません。(…)「ポストモダン小説」として読まれるのであれば、それは「ポストモダン小説」です。しかしその書き手は 「小説家」であって「ポストモダンの小説家」ではありません。(…)それぞれの表現者は、それぞれの方法で「選択の素地の提示」を行うだけです。(…)読 者が、ことさらに「ポストモダン小説か否か」を判断する必要もありません。おもしろいなら、それでいいのですから。
ーーだけどここで言っているような「選択の素地の提示」なんてのは、これまでの多くの文学作品でも行われてきたことじゃないの?
その通りです。ポストモダン文学は、その意味では「これまでの文学」と特に変わるものではありません。
ーーじゃあ、どの意味で違うの?
(…)読者に「あらかじめ表現者(作家)が想定した『おもしろさ』を感じさせようとする」ことを否定するという点です。
(同 p.167-168 ※論旨が変わらない範囲で、前後を入れ替えて引用)
*3
流れ行く[ ]の早さかな
[ ]に影といふものありにけり
問 題はこの形式が詩にあって何の意味を持つのか、この形式に実態(カッコの中味)が載ることによっていかなる価値を生ずるのか、その実体と言われるものが季 題という単に(歳時記という)約束用語表に載っている物でリアリティを持つのか、ということである。いや、それを越えて、こうした形式と実体が織りなす俳 句とは、一体何なのであるかという根本問題であろう。説明はなかなか困難であるが、それでも一句の中に俳句とは何かの問題を抱え込む作品は、季題趣味の俳 句よりも批評に値する句である可能性が高いと言えるのではないか。(筑紫磐井『近代定型の論理』2004 邑書林 p.265)
*4
江川投手は征露丸です咲くさくら
花冷えのイカリソースに恋慕せよ
春の坂丸大ハムが泣いている
桜散るあなたも河馬になりなさい
日本のすずめのてっぽう父走る
帰るのはそこ晩秋の大きな木
がんばるわなんて言うなよ草の花
『現代俳句文庫 坪内稔典集』(ふらんす堂)から、思うままに引いてみました。
*5
一月の甘納豆はやせてます
二月には甘納豆と坂下る
三月の甘納豆のうふふふふ
四月には死んだまねする甘納豆
五月来て困ってしまう甘納豆
甘納豆六月ごろにはごろついて
腰を病む甘納豆も七月も
八月の嘘と親しむ甘納豆
ほろほろと生きる九月の甘納豆
十月の男女はみんな甘納豆
河馬を呼ぶ十一月の甘納豆
十二月どうするどうする甘納豆
(坪内稔典『落花落日』1983)
2009-06-07
ポストモダンについて今言えそうなこと 上田信治
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