2009-06-14

中村苑子遠望4 氷河と乳母車 松下カロ

中村苑子遠望 4
氷河と乳母車

松下カロ


  おんおんと氷河を辷る乳母車 『水妖詞館』1975年

中村苑子が乳母車を詠んだ句は、掲句のみ、他にはないようです。

乳母車を句に詠むのは難しいと言われます。

乳母車の句は、「仁丹俳句」と言うのだ、と教えられた事も。数が多くて何にでも効くから・・・!?

「もの」には、かならず裏面があり、例えば「桜」を詠んでも、出来あがった句は、明るく華やかであったり、怖しさを背負った仄暗いものとなったりするものです。

穏やかな日和を選んだ母親が、大切な赤ん坊を乗せ、ゆったりと押してゆく。

乳母車には、命を育むというアットホームな印象があまりにも強く、「裏」を感じさせる陰影のある句作を展開しにくいのかもしれません。そのあたりが詠めば「仁丹」になってしまう原因なのか・・・。

苑子の乳母車は、そんな私達の先入観を裏切るものです。北の果て、人跡未踏の氷河を「おんおんと辷る」乳母車。おんおんと。泣く、それも慟哭している感じです。俳人は乳母車に、暖かい家庭の雰囲気を見ていません。それどころか、誰も思いつかないような意表をつく言葉、「氷河」を衝突させています。

  浜木綿へ兄は流れて弟も   『水妖詞館』

  磯の花嫁沖へ沖へと招かるる

兄、弟、花嫁。「家族」の構成メンバーとしての名称です。親しいものたちが、沖遠く、攫われ、流されてゆく。苑子句にしばしば見られる画像のひとつです。

いつも疑問に思うのは、苑子の乳母車には果たして赤ん坊が乗っているのか  どうか、です。赤ん坊を乗せて何処とも知らず漕ぎ出して行くとも見えるのですが、乗せるべき赤ん坊を失った空の乳母車であるような気もします。空になった乳母車とは何のメタファなのでしょう。

ここにもう一台の乳母車があります。

  乳母車夏の怒濤によこむきに 橋本多佳子 『紅絲』1951年

橋本多佳子は1899年生まれ、中村苑子より14歳年上です。中村汀女、三橋鷹女、星野立子と並ぶ、いわゆる4Tのひとり。彼女は、若くして杉田久女に出会い、後に虚子、誓子に師事します。誓子の『天狼』で活躍、自らも『七曜』を主宰しました。早く夫君に死に別れ、亡夫を恋う句が知られています。

  夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟 『紅絲』

  鶏しめる男に雪が殺到す

白桃に入れし刃先の種を割る

多佳子句は、自己愛の強さを言われますが、実存主義小説のように、骨格のしっかりした表現は誰をも納得させる力強さがあるようです。中村苑子のバックボーンが非日常であったのと比べると、多佳子句は、目に見える日常を、優れて感受性豊かな技量で句に作り上げることを旨としていました。

  乳母車夏の怒濤によこむきに

波打ち際に乳母車がある、ということは、危険な要素を含んではいますが、ありえないことではないでしょう。事実、句は作者が、当時娘の住んでいた小田原の海に出かけた時の出来事が詠まれたものです。大人たちが海辺でおしゃべりしているうちに、乳母車の存在を忘れ、ふと気がつくと風のためか、波のせいか、赤ん坊を乗せたまま、乳母車は車輪を波に浸して、ポツンと置き捨てられていた・・・。ヒヤッとしますが、句はこの偶然をきっかけとして、見事な普遍性を得た作品としての完成をみています。

鋭い怒濤と対峙するように置かれた乳母車は視覚を喚起します。「よこむきに」が、句のスケールを大きくしています。読者は海岸線に沿ってヘリコプターに乗って俯瞰しながら移動しているような気分になります。彼方に何かが見え、近づくに従って、それは白い幌を靡かせている乳母車である事が解る。中には赤ん坊が乗せられているらしい。辺りには母親らしい人影もなく、いったいどうしたんだろう・・・。乳母車が真下に来た、と思う間もなく、ヘリコプターはあっという間に海上を遠ざかる。なんと大きな絵。自然の前では無力な、しかし強さをも秘めた命。客観的な描写に、強い情感がこもっています。

  おんおんと氷河を辷る乳母車

苑子句の乳母車もまた、大きな絵の中にあります。多佳子句と違うのは、苑子の景色は、現実のものではない、という点でしょう。

永遠に融ける事のない氷河の上のちいさな乳母車は水葬の棺のように見えます。

主語の曖昧な句、動詞の意味の取りづらい句などが満載の『水妖詞館』ですが、この句に限っては、上五、中七が素直に「乳母車」に係り、構成はごくシンプルなものとなっています。そのため、信じられないような「氷河と乳母車」の光景は、明瞭な絵として読者の前に広がります。寒々とした画面は、俳人の心の中に去来していたどんな記憶、感情から来ているものでしょうか。

ここからは、個人的な見解として述べたいと思いますが、掲句は子供を失った体験が詠まれたものではないでしょうか。新生児の死亡率が飛躍的に下がったのは戦後かなり経ってからのことで、苑子の世代、赤ん坊が亡くなるのは珍しい事ではありませんでした。子供をなくす、というシチュエーションには、他にも様々ないきさつが考えられるでしょう。

『水妖詞館』中、この句のひとつ前には、
  わが襤褸絞りて海を注ぎ出す

があります。これは出産のイメージを秘めた句です。この句に連なる形で、去って行く乳母車の句が置かれているのです。

勿論事実がどうであったか、は解りません。しかし俳人の半生の、いわば「私小説」として編まれた印象の強い『水妖詞館』の中の、たった一台のよるべない乳母車には、幼い子供の喪が重ねられているように思われてならないのです。(あくまでも私見です。)

不幸な記憶は、俳人の作句過程の中で磨かれ、できあがった句には、ひとりの母親にとってのひとりの赤子の死ではなく、古今の「幼児の死」と、母親達の嗚咽が「おんおんと」込められる結果となりました。乳母車は、「死児の棺」として、アニミズムの対象となる事物に生まれ変わったと言えるでしょう。

馬場あき子は『水妖詞館』について述べた論評の中で、乳母車の句を含む一連について、

日本精神史の中の風景から汲み上げてきた、女の心の世界・・・ことばを尽くしてもなお語りきれないような、女の、また、母や老女たちの、哀しみや深い情念などが凝縮されているようで、こわい感じさえする句である。」(コレクション俳句『中村苑子』)と語っています。個々の不運が表現を媒介にして、共感へと広がってゆく。その辺りを指摘した言葉とも読めます。

もうひとつ「おんおんと」の句を読むと必ず思い出す作品は、

  蝶墜ちて大音響の結氷期   富澤赤黄男  『天の狼』

「昭和俳句」のアンソロジーには必ず現れる一句。富澤赤黄男(1902-62)は『旗艦』同人。のち高柳重信と『薔薇』を創刊。『俳句評論』では重鎮的存在でした。蝶の句が詠まれたのは1941年。戦雲が垂れ込める時代背景との関係もさることながら、「新興の最後の遺産、前衛の最初の輝き。」と評されることも多い作品です。高柳重信は、師である富澤のこの有名な句について、

文体と出会うために必要とした記念すべき代表作。」と述べ、同時に、

赤黄男俳句の真骨頂は、より内的な思考の現われた、   流木よ せめて南をむいて流れよ 『蛇の笛』  のような作品にこそある。」とも主張しています。(『富澤赤黄男ノート』)

いずれにしても蝶の句が、現代詩への傾斜を孕み、「新興以後」の新しい俳句表現を模索した作品であることは疑う余地がないでしょう。

苑子句から蝶の句へ辿り着いたせいでしょうか、「結氷期」に、「ものが凍る時期、厳冬期」ばかりではなく、「氷に閉ざされた極北の地」、乳母車の句とも似た背景を見てしまうのです。生命の絶え果てたような氷の世界に姿を現した色鮮やかな蝶。恰も春野を飛ぶようにひらひらと舞い、大きく口をあけたクレバスの中にふっと吸い込まれる。落下した途端、地響きと共に耳を劈く轟音があがり、あたりに連なる氷山はどんどん崩壊してゆく・・・。暗い世相、貧困、自身の従軍と病気。富澤赤黄男の眼に、ある時幻影のように、しかしはっきりと見えた蝶の落下。逆境の中で無力に命を失う、という暗い心象よりも、孤高のさまで飛ぶ蝶には、表現への自負と信頼がこもっています。

蝶の句に直接の影響をうけて乳母車の句が詠まれたかどうかは置くとしても、氷河に忽然と出現した乳母車は、「結氷期の蝶」と同じ驚きを誘います。氷河、結氷期には、時間的な遠さを経た「氷河期」の意味も含まれているようです。乳母車が還ってゆくのは、時空を超えたそんな場所でしょうか。

富澤赤黄男、中に高柳重信をはさんで、中村苑子には、こんなリンクもあります。

  乳房や ああ身をそらす 春の虹   赤黄男 『蛇の笛』

  身をそらす虹の
  絶巓
         処刑台        重信  『蕗子』

  身を反らしいづれは渉る虹の橋    苑子  『吟遊』

高柳は、赤黄男を、

眼前の景ではなく、もっぱら眼中の景を表現しようとする作家」とも述べています。(高柳重信『富澤赤黄男の日記から』)

富澤赤黄男はそれまで、
  妻よ欷いて熱き味噌汁をこぼすなよ    1935年

  うつくしきネオンの中に失職せり     1937年

などの句で評価を受けていました。蝶の句によって俳人は思い切って「眼前の景」から「眼中の景」へと舵を切り、以後、『俳句評論』を中心に展開された方向へ道が拓かれて行きます。(眼中の景とは、必ずしも見たままではない、しかし俳人の確たる実感に裏打ちされた風景と解釈しています。)

「眼前か、眼中か。」伝統か前衛か、とも似通ったこの二律背反は、長く俳句が抱えてきた問題です。(前衛の定義については、近年、特に慎重にならねばならないようですが・・・。)高柳の主張は専ら「眼前にしがみつく」ことの愚、「眼中に踏みこむ」ことの重要性に向いています。俳人はいつも、そのどちらかを選ぶことを迫られてきたのかも知れません。しかし現在の俳句には、「眼前を写す」事も、「眼中を映す」ことも同じように重要であるように思われます。

格好の対照が、乳母車の二句です。

  乳母車夏の怒濤によこむきに   多佳子

  おんおんと氷河を辷る乳母車   苑子

多佳子の乳母車が「眼前に」置かれているのに対して、苑子の乳母車は「眼中を」辷ります。多佳子は「眼前の景」を、苑子は「眼中の景」を選び取り、それぞれが他にはないたったひとつの乳母車をうたう事に成功しています。

母性の象徴である海、河を舞台に、多佳子の乳母車は、豊かな描写によってみずみずしい生命感を獲得しました。苑子の乳母車もまた、その内的な映像表現によって、失われたものたちを容れる器となり、氷の河をどこまでも辷ってゆきます。  

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