2009-07-05

〔週俳6月の俳句を読む〕小野裕三 追加情報はありません

〔週俳5月の俳句を読む〕
小野裕三
追加情報はありません


明易や物置けさうな凪の海  岸本尚毅

「それは一体、何を?」と問いたくなるような俳句がある。いろんなことを書いているくせに、肝心のことが書いていない。じらされているようで、はぐらかさせてもいるようで、読み手は「だからさ、一体、何をなのよ?」とついつい問い詰めたくもなる。ところが、それがまさに書き手の思うツボで、その時点で既に読み手はすっかり書き手の術中に嵌っている。この句も、ぱっとみると情報は多い。明易から季節も時間もわかる。空の色まで見えてくるようだ。凪の街なので、海辺の鄙びた町の風景も見えてくる。物が置けそうというから、港に沿って何か広い空間もあるのだろう。と、ここまで提示して置きながら、肝心の「でさ、何を置くの?」ということはわからない。でも、俳句は五七五で終わってしまっているので、ここでゲームオーバーなのだ。追加情報はありません。ずるいなあ。ということで、読み手はいろいろと想像を逞しくするしかない。その陰で、書き手がほくそ笑んでいるのが目に浮かぶようだ。


空論は空論ぬるき缶ビール  堺谷真人 

連作の表題からすると、1983年に志摩に旅行した際を想起した句群、ということなのだろうか。少なくとも僕は勝手にそのように想定して読んだ。その想定からすると、作者は大学に入学したばかりとか、おそらくそのくらいの年齢なのだ。すべてが新鮮な光に満ちている時期だ。友人の弾くギターも、雑魚寝の中の異性も、そして飲み交わすビールも、そして学生ならではの青臭い議論も。空論と知りつつもそれを論じる愉しさがそこにはあった。ちょうど、ぬるくなったビールにもその愉しさがあるように。俳句を連作として成功させるのは、一句一句の成功はまた違った側面がある。連作の成功の鍵は、表題が表すコンセプトがすべての句を統御できるかどうかに掛かっているのだと思うが、「1983年の志摩」という設定が、この連作を成功させていると思う。


橋あれば橋をゆくなりなめくぢり  河野けいこ

俳句で有効なひとつのレトリックとして、因果関係をでっち上げるということがある。でっち上げるというと変だが、本当は因果関係などなさそうなのに、それを因果関係としてしまうということだ。有名なところでは高屋窓秋の「ちるさくら海あをければ海へちる」があるだろう。海が青いから散っているわけではないのだが、そんなふうに言われると、妙に納得するところがある。掲句もその手の句だ。橋があるからナメクジが歩いているのではないだろうが、こう言われるとこれもまた妙に納得する。ただし、この手のレトリックがなんでもかんでも成功するわけではない。この当てはめにはやはり詩的センスが必要である。レトリックが作り上げた俳句の空洞に響き渡るシンプルで強い詩的イメージが必要なのだ。


つまみをり靴の固さの甲虫  齋藤朝比古

俳句における「発見」には、明らかに名手がいる。とにかく名手としか呼びようがないほど、読み手を唸らせる。この作者は、現在の俳壇においてそのような名手の筆頭格だろう。少し前に議論があったが、甲虫が「生きているように死んでいる」と言われても、正直なところ、あまり特別な感興はない。言われてみればそうだね、とは思うが、はっと虚を突かれたような気はしない。ところが、つまんだ甲虫が「靴の固さ」と言われると、はっと虚を突かれた思いがする。限りなく比喩に近いようにも見えて、比喩でもない。リアルな実感として、作者の中にそれは「靴の固さ」として訪れたのだ。固さにもいろいろあって、微妙な違いでそれが靴の固さだったり帽子の固さだったりに変化するのだろう。作者はその微妙な目盛りの違いを捉えて、それを俳句の形に完成させた。俳句とはかくあるべし、と思わせる名手の一句である。


岸本尚毅 夏暑く冬寒き町 10句 ≫読む
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