〔週俳6月の俳句を読む〕
三宅やよい
視線が痛い
休日に近くの石神井公園へ行くと木陰にキャンパスを立てて
風景を描いている人をよく見かける。
私も「透明水彩で描く草花」なんて、カルチャーコースに
何か月か通ったこともあり、 絵はきらいではない。
肩越しののぞいてみるけど、
なんだか面白くない。
上手下手の問題ではなくて、キャンバスの中の風景が既に描かれたことのある
描写の方法を真似ているにすぎないからだろう。
それは私が絵を描いているときも問題だったし
ましてや手帳を手に公園をうろついている
今だって言えることだ。
描いているときには懸命でも抜け落ちてゆくもの、
それは何だろう。
今、ここにいて筆を動かしている幸せがあるはずなのに、
その喜びもキャンバスに載せられないなら、
この人たちはどうしてここにきているのだろう。
それは筆を鉛筆に変えた私にも言えることだ。
明易や物置けさうな凪の海 岸本尚毅
たとえばこのような句は「目前の景色をそのまま叙する」と定義された「写生」とは無縁だろう。
最初は俳句的言葉の枠の外にある発見が旨だった
素朴な「写生」は骨までしゃぶり尽くされたように思える。
風景は舐めまわされ、歳時記は数限りない例句を生み出した。
「写生」は方法となることで陳腐化し、数ある中で偶然をバネに
出来てしまった句、思わぬ角度からの句を楽しむマニアックな面も見せるようになってきた。
だけどこの句はそうした「結果として」の句でもなく、今風な取り合わせで
季語の本意をずらせるやり方とも違う。比喩は使っているが
あくまで「写生」と見せかけて「写生」でない、回路を抱えている。
数か月前なら夜と言っていい時間にしらじらと空が明るんできて、
暗さと明るさの混じった何ともいえない色合いになる。
夏であるのに冷涼な空気の独特な時間帯、
凪いでいる海との取り合わせがモノトーンの色調を思わせる。
「物置けさうな」という表記にしたことで、ひらたく広がる海原と同時に
「物置き小屋」のように重量感のある物体を思わせ、
海に物を置くという逆説を更に効かせている。
たぶんとっかかりは「明易」という季語がすべてであって、
その空気感や気分を壊さぬよう、K音を中心に
配合よく言葉が組み立てられていったのだろう。
あくまで自然に見えるのは
季語を核としての言葉のチューニングが抜群っていうのか、
言葉の飛ばし方から着地まで
俳句という器に過不足なく出来上がっているからだろう。
むかしの「写生」が対象に没入する熱さだとすれば、
この句は冷感的な言葉の「写生」だ。
網戸を通して外の景色を見るように
作者の頭を通して広がる空間を見ている感じがする。
うまいなぁ。
だけど、こういう句を見ると同時に警戒してしまう。
アラーキも言ってた、
「写真に完成度を求めないほうがいいね、完成度が高いと目がとまってしまう。
そこに見るとみられるっていう関係が長い間続かなくなってしまうから」って。
猫の如く色さまざまの浅蜊かな 同
参加の余地っていうのか、この句の可愛さは抜群だ
水に沈んでいる浅利の模様がむくむくと起き上がってきてキジ猫になって
烏猫になったり、ブチになって、そのまま台所の小窓から外へ抜け出しそうである。
浅利とはまったく質感が違うのに猫って選択が静かな貝に躍動感をプラスしている。
がんばつてゐる噴水の機械かな 同
この句に一番視線の痛さを感じた。
吹きあげる噴水の地下にある機械の歯車とか軋む音まで聞こえそうだ。
アスファルトやコンクリートの厚みがシースルーになって透けて見えそうな具合だ。
これは現実描写という域からいえば痛いほどの「写生」で、今の時代を生きて
「写生」をすれば、描きだす現実に季語などはばたばたと打ち死にしそうである。
目の前のことを見通せば、いまの世の仕組みをはじめ
俳句では言わない方が身のためのことがたちまちふりかかってくる。
そんな危うさに「がんばつてゐる」と真っ当な言葉でさらりと触れて、
滑稽を感じさせながら何とも怖い句である。
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2009-07-05
〔週俳6月の俳句を読む〕三宅やよい 視線が痛い
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