2009-07-12

〔週俳6月の俳句を読む〕馬場龍吉 「大人の俳句」とはカッコイイのかワルイのか

〔週俳6月の俳句を読む〕
馬場龍吉
「大人の俳句」とはカッコイイのかワルイのか


猫の如く色さまざまの浅蜊かな  岸本尚毅

「雀蛤となる(秋)」「雉子大水に入りて蛤となる(冬)」という季語は蛤の貝の大きさからみて想定内のオドロキのある楽しい季語であるが、掲句は季語としてではなく浅蜊の見立てとして猫を持ってきたところに面白さがある。しかもこの面白さは「どーだい! してやったり」と機知的に目立っているわけではない。〈明易や物置けさうな凪の海〉〈黴を寄せまじく貧乏揺すりかな〉これはまさしく機知俳句の部類に収まるだろう。岸本氏の作品としては今回のようなこういう集め方は少ないのではないだろうか。週俳の読者に対するサービスだろうか。〈人生は長からねども潮干狩〉〈夏暑く冬寒き町通し鴨〉などが岸本作品の本流と思うが、掲句周辺の俳句は筆者個人の好みである。「大人の俳句」にはこういうサービスが軽く盛り込まれているべきものだと思う。

  

空論は空論ぬるき缶ビール  堺谷真人

これはこれは「缶ビール」がピッタリと嵌っている作品。缶ビールの温さが伝わってくる。しかし空論からも缶ビールからも未来を感じ青春を感じる。空論と言う浪費の時間には未来があり、をぢさんの空論には過去と現在の経験による消費の時間でしか無いように思う。〈船虫を踏まねば着かぬ未来かな〉ここにも未来がある。をぢさんに未来が無いとは言わないが、未来を詠むことは滅多に無くなってくるようだ。〈手花火や人それぞれの闇を負ひ〉は堺谷氏の感性にそぐわないように思った。無理をして読者にサービスしてはいないだろうか。

  

橋あれば橋をゆくなりなめくぢり  河野けいこ

まことにそうだろうと納得させられた作品。橋と言う「晴」の場に「芸」の動物、蛞蝓を登場させただけの掲句。目が利くとはこういうことを言うのだろう。例えば吟行に同行したとして、こういうところに目が行く人、モノに目が利く人にはかなわない。〈この道は蛇を飛び越えねばならぬ〉伊豆の海に出る山道などは蛇の昼寝時には丁度こんなだろう。モノを丁寧に詠むということは「喜怒哀楽」の言葉が省略できる分、奥深いところを詠むことができるのではないだろうか。深読みはいくらでも出来る。

  

借り物のやうに線香花火持つ  齋藤朝比古

齋藤氏の作品には正直なモノの見方をする姿勢が見られる。手花火の一部始終を見て第一印象を極めて出来たのが掲句ではないだろうか。この俳句を読んで、改めておそらく誰もが感じたことのある些細なことだろうと思う。ところが常人はその花火の光と闇を追求して俳句にしてしまう。氏は自分の目で見た第一印象を見失わず疑わない。「職人のような頑固さのある俳句職人」とも言えるだろう。〈つまみをり靴の固さの甲虫〉にもそれが感じられる。少年時代の触感の第一印象を結晶させたとも言える。

  

「大人の俳句」とは少年、少女のこころを決して見失わない人を言うのではないだろうか。それはカッコイイ。



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