2009-07-05

〔週俳6月の俳句を読む〕中村安伸 幸福なとりあわせ

〔週俳6月の俳句を読む〕
中村安伸
幸福なとりあわせ



人生は長からねども潮干狩  岸本尚毅

春の陽光、潮のにおいのなつかしさなどを感じながら無心にすごすひととき……。この句を読むことによって、そのひとときの思い出が限りなく貴重なものに感じられ、砂や泥の感触、生き物の微細なうごめき、波の音やひとびとの嬌声といったディテールが、きわめてクリアーに脳内に再現されてくるのは、おそらく「人生は長からねども」というフレーズの効果である。人生という有限の時間の一部を費やすという意識が、体験を際立たせるのだろう。

一方「人生は長からねども」というフレーズは、単独ではやや陳腐に感じられる。しかし、それは供給過剰によって食傷気味になっているだけで、多くの人に共感をもって受け入れられてきたということでもある。すなわち、新たな光をあてることによって強い輝きを放つ可能性をじゅうぶんに秘めているということだろう。

また「人生は長からねども」というフレーズをリアルに実感することには、いくばくかの痛みがつきまとう。このフレーズを陳腐だと感じた瞬間、読者はその言葉を素通りすることによって、その痛みを避けているのである。この句がそのような素通りを許さないのは「潮干狩」という季語が「人生は長からず」という概念を受け止め、形象化するはたらきをしっかりと担っているからだと思う。限られた引き潮の時間のなかで、貝などの生き物を獲るという行為。それを人生そのもののメタファーとするのは、少々深読みに過ぎるかもしれないが……。

この句の場合、とりあわせられたフレーズと季語の間に、相互にその効果を高めあうという幸福な関係が築かれているといってよいだろう。しかし、これは単なるとりあわせではない。「ども」という逆接の助詞のはたらきもまた、句の味わいを深めていると感じる。たとえば「人生は長くないが、そのなかの貴重な数時間を費やすに十分値するものである」などという散文的解釈はいくとおりも可能である。そこに正しいひとつの解答というものはないが、いずれにしてもこの助詞のはたらきによって、潮の引いた浅瀬の砂のひとつひとつが、さらに輝きを増しているのだと思う。

猫の如く色さまざまの浅蜊かな 同

浅蜊の貝殻の模様に、ひとつとして同じパターンはない。三毛猫などの模様についても同様である。そうした論理的な分類によって、なかば強引にひとつの句に閉じ込められた「猫」と「浅蜊」。そのとりあわせに対するざらっとした違和感が、あたらしい興趣につながっているという気がした。


青嵐草を吹くとき這ふ如し 同
青嵐そこ柔らかき草多し 同

「草を吹くとき」の句は、青嵐を擬人化したともとれるし、上五で切れて、草を吹く人の様子を描いているともとれる。ふたとおりの読みを総合したところに、風でもあり人でもあるような不思議にユーモラスな存在が浮かび上がってくる。そしてそれは「そこ柔らかき」の句とあわせて読むとエロティックな様相を帯びてくる。

「そこ柔らかき」の句の「そこ」という指示語に注意を惹かれた。中七下五の台詞の発話者は誰で、誰への呼びかけで有るのか。明確に特定することはできないが、「草を吹くとき」の句とセットで考えるなら、作中主体が「草を吹く者」へ呼びかけているという解釈になるだろうか。

二句トータルの実景としては、ただ青嵐に草が吹かれているということ、殊に柔らかな草が吹かれる様子に着目した、ということなのだろう。あくまでも実景に即した表現を使いながら、ゆれうごく草の妖しい生命力を実感させ、同時にエロスを幻想させるものとなっている。



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