2009-07-26

比喩をめぐって【後編】 高柳克弘×さいばら天気

比喩をめぐって
【後編】
とりはやし vs 野蛮の二物
 こしのゆみこ句集『コイツァンの猫』を読む

高柳克弘×さいばら天気




偶発的二物から「とりはやし」へ

さいばら天気(以下、さ)●さて、高柳さんの記事では次の展開として、望ましい比喩について触れています。
M・ブラックによれば、比喩で結びつけられた二つの主題は、それぞれ「意味が拡張」(『創造のレトリック』)する。この考えを受けて、石原千秋は、「成功したメタファーは、既に常識化した類似性を提示するのではなく、類似性を創造する」(『読むための理論』一九九一年)と定義する。
簡単にいえば、ダメな比喩は既成の意味のセットに依存するのみ、望ましい比喩は、互いに意味を拡張する、ということですね。ただ、そこは一筋縄には行かない。事例をとして挙がるのが、こしのゆみこ第一句集『コイツァンの猫』です。
たとえば、こしのゆみこの第一句集『コイツァンの猫』(ふらんす堂)は、言語芸術としての俳句の限界に挑もうとする刺激的句集であり、メタファーも従来の発想に捉われない自由さを持つ。だが、〈朝顔の顔でふりむくブルドッグ〉〈えんぴつで描く雨つぶはひぐらし〉〈海しずかヌードのように火事の立つ〉といった句の独特のメタファーは、スロットマシーンのような偶発性の衝撃にとどまらない創造性を発揮しているだろうか。
私が違和感をもったのは、このうち「スロットマシーンのような偶発性の衝撃」にとどまっているという、まあ、負の評価の部分です。こしのさんの俳句を擁護するのが目的ではないのですが、私の見方では、「偶発性の衝撃」にまで到っている、だから、良い、と、こうなるわけです。

高柳克弘(以下、高)●この句集については、天気さんもブログに書かれていますね。「こしのゆみこという不思議な生き物」。そこにある句で、〈朝顔の顔でふりむくブルドッグ〉を例にとりましょう。たしかに「朝顔」と「ブルドッグ」の結びつきには、衝撃があります。「スロットマシーン」という語で言いたかったことは、ふたつのもの、これは俳句の基本的な組成ですが、そのふたつのものを見つけるところまでは、偶発でいい。けれども、そのふたつの語を結びつけるところが大事になってくるんじゃないか。そうすると、ブルドッグと朝顔、この発想はおもしろいとも思いますが、「顔」で結びつけてしまうのは、どうなのだろう、と。

さ●なるほど。高柳さんのおっしゃりたいことがわかってきました。

高●もう一句、〈桃咲いてぼおんぼおんと人眠る〉の句。桃が咲くこと、人が眠ること、このふたつはおもしろい。ところがそれを繋げる「ぼおんぼおんと」がわからない。不適切だと思う。結果的に一句がバラバラに見えてしまう。そのあたりが物足りなかった。

さ●ふたつの材料を見つけ出してくるところまではおもしろい。私が使った語でいえば、人と違った回路を持っている。それを使って、ユニークな二物を掴み出す。ところが、高柳さんに言わせると、ツメが甘いと(笑。

高●そうなんです。俳句って、何と何をぶつけるか、ということだけではないじゃないですか。いかに結びつけるかという…。俳諧の用語で言うと「とりはやし」。たとえば、「木隠れて茶摘も聞くや時鳥 芭蕉」の場合、「茶摘」と「時鳥」の照応を生かすために「木隠れて」がある。それを「とりはやし」という。面白い二物を見つけてきたら、そのふたつをどのような言葉で結ぶのか、いろいろ換えたりして試してみる。そこが大事なんじゃないかと。そこに個性も現れてくる。

さ●きわめてよくわかります。


ワケのわからないおもしろさ

高●いまは「二物衝撃」が一人歩きして、ふたつのものをバンッと置けばいいという風潮がありますが、ふたつのものが一句の中でいかに結びついているか、そっちのほうが重要なんじゃないか、と。

さ●ふたつのものを掴み出す腕力は認める…。

高●はい。それはもう。

さ●でも、打撃に譬えれば「ミートが悪い」。球にきちんと当たってないじゃないか、と。

高●ええ、ええ。

さ●〈朝顔の顔でふりむくブルドッグ〉の「顔でふりむく」は、これでいいのか。〈桃咲いてぼおんぼおんと人眠る〉の「ぼおんぼおん」は、どうなのか。その点で、高柳さんに向かって、「いや、そうじゃない」と反駁するところがあるかといえば、ない(笑。でも、評価してしまうんですよねえ。これは、なんといえばいいのか…(笑。この措辞があまりにナイーヴだというのは思います。でも、捨てがたい。その理由は、やはり、ブログ記事に書いたように「ヘン」さですかねえ。人とは違う回路という部分。

高●その場合の「ヘン」は、二物の選択だけじゃないですよね?

さ●はい。繋げ方も。んん、ここは説明が苦しいですねえ(笑。迂回するようですが、高柳さんの記事にある〈海しずかヌードのように火事の立つ〉、これには魅力がない。

高●どう違うんでしょう? 私には同じように思えます。

さ●底が見える。相同がはっきりしすぎているんでしょうか。〈海しずかヌードのように火事の立つ〉の場合、3つの要素、3つの語が同じ質感なので、平板に思える。そういうところがある。それなら、朝顔とブルドッグも相同が明白じゃないかと言われそうで、困ってしまいますが(笑、これは質感が違う。だから、いい。

高●んんん。

さ●もう一句とりあげると、〈えんぴつで描く雨つぶはひぐらし〉、これは相同や類似を感じなかった。だから比喩でもないと…。

高●あ、この句で聞きたかったんですが、「雨つぶ」という場合、「つぶ」ですよね。それはたしかに「ひぐらし」と類似を見出すのは難しい。雨の降る様子、線的なイメージなら、「ひぐらし」の鳴き声に繋がるから、わかる。ところが、「つぶ」とある。どちらで読まれました?

さ●「つぶ」ですね。だから、相同・類似ではなく、比喩でもない。だから魅力的なのかもしれません。これを比喩だと言われたら、「え? 比喩になってない」と答えますね。

高●だったら、どう読めばいいんですか?

さ●ワケのわからないものとして読む(笑。

高●そのままに? ああ、なるほど。たしかに俳句の比喩とか相同は、そう解釈するとおもしろくなくなってしまうというところはありますよね。

さ●そう、わかったとたんにおもしろくなくなる(笑

高●これは比喩だよって言っている句は味がない。

さ●さっきの話題で言えば、読んですぐさま「なるほど」と膝を打つような句とは対極のところにある。こしのさんの句は。

高●はい。

さ●いつまでも自分の中で謎としてある句。

高●ありますねえ、そういう句。

さ●わからないけれどおもしろいという句はあっていい。けれども、それはなにも故なきことではない。意味ではないんですね。意味はわからなくとも、語の質感であったり、韻律であったりが魅力的なわけです。そのだんで言えば、高柳さんが、むしろこちらを評価するとして挙げられている〈卯月野をゆくバス童話ゆきわたる〉は、私は評価しないんです。

高●それは、どうしてですか?

さ●仕掛けが見えすぎるから。「卯月野をバスがゆくこと」と「童話が(卯月野に)ゆきわたる」ということがイコールで結ばれている。その点が退屈です。

高●その読みは、私が示した第二の読みですね。

さ●引用しましょう。
「童話ゆきわたる」というフレーズの不完結感が、あたかも読み聞かせの童話がバスの中にとどまらず「卯月野」の全景へと広がっていくような、奇妙に歪曲された情景を創出している。
第一段階の読みは、童話がバスの中にゆきわたる。第二が、それが卯月野へのゆきわたる。いわば二重構造。でも、私は、そのうち第一の読みを読まず、したがって二重構造のおもしろさは味わえなかった。

高●でも、その読み方だと、「卯月野をバスゆく童話ゆきわたる」と対句になっているはずです。そうはなっていない。

さ●それも言えますね。「ゆくバス」は、前半の体言止めと後半の用言止めとバランスをとっただけにも、私には見える。

高●語順は大事で、あえて「ゆくバス」としている点を重視しなかればならないと思います。対句をあえて避けているところがある。だから、童話はまずバスの中にゆきわたり(第一の読み)、それから卯月野にゆきわたる(第二の読み)。

さ●このへんは、読み方の違いが興味深いです。「違う」と言いっぱなしにしてはいけないんだけど…。高柳さんのおっしゃるように流動的な読まれ方を狙ったものかもしれません。いずれにせよ、この句は、私にとってはワケがわかる。そのわかり方に不満がある。評価を得る句であることは認めますが、こしのさんが作らないといけない句とは思えない。

高●たしかに、こしのさんの本領ではないですね。


あらわな野蛮、隠し持つ野蛮

さ●じゃあ、こしのさんの本領とは何かということで、さっきの話に戻るのですが、高柳さんのおっしゃる「とりはやし」、二物をいかに繋げるかという措辞の部分の重要性、それはよくわかります。こしのさんの句、私が魅力的であるとして挙げた句が、そこのところが充分に作り上げられているとも思わない。それはさきほども言いました。けれども、その部分、「とりはやし」の部分を洗練していくとなると、どうなんだろう、こしのさんの俳句の魅力は、半減するような気もするんです。

高●んんん。

さ●バーバリアンな部分。野蛮なところ。それがこしのさんの魅力のような気がする。

高●野蛮?

さ●野生(ソヴァージュ)と言ってもいいんですが、ブルドッグと朝顔。どん、どん、と剥き出しでぶつけてくるようなところ。たしかに、ふたつを繋ぐのに他の措辞も考えられるででしょう。けれど、そこを磨いていくと、野蛮・野生の魅力が失われる。そういうことってあるでしょう。それが作家性ということだとも思う。

高●このブログ記事にある「天然」ですね。

さ●はい。レア(なま)のままだから、おもしろい。これをうまく調理したら、レアの魅力がなくなる、と思うんです。もちろん、もっと違うやり方、うまい調理法はあるだろうと…。

高●ありますよね。

さ●あると思います。高柳さんがおっしゃるとおりです。ですが、そうしないのが、こしのさんであり、そんな野蛮さが貴重であると、そう読みました。この句集に「うまく言えている」句は少ないと思います。これは貶めているのではなく、そういう「うまく言えた」句の対極にあるのが、こしのさんの句ではないか。

高●私もその「野蛮な句」は好きで、むしろ、そういうものを積極的に求めたいと思っています。けれども、その野蛮さみたいなものが、こうまでわかりやすく出てしまうと(笑、かえってちょっと…という…。

さ●なるほど。

高●見た目には非常におとなしい顔をしているのに、じつは凄く野蛮なものを秘めているという、そこがほんとの野蛮さじゃないか。

さ●例えば、虚子のいくつかの句?

高●虚子、そうです、そうです。

さ●普通の顔をしているのに、内実は、かなりヘンという。

高●そこを引き出すのが「読みの力」です。見た目からもうヘンだったら、読む必要もないんじゃないかと(笑。読み手の仕事は残っていない。みんなで、「ヘンだね、ヘンだね」と頷き合っていればいい。

さ●んんん、そこに応えるのは正直言ってツラい部分があるんですが…。ただね、ヘンって、そんなに簡単なものじゃないんですよ。

高●そうなんですよねえ。

さ●こしのさんは、その点、つまりヘンということでは稀有な存在であることは間違いないとは思います。


読者をもっと信頼していい

さ●句を少し見ましょうか。〈ひよこ売りについてゆきたいあたたかい〉、これは、どうですか。完成度の高い、いい句だと思いますが?

高●これは童話のような、教訓のない童話のようで、いいですね。この句はおだやかな表情で、なにげない顔なんですが、それでいて「ヘン」さがある。

さ●〈昼寝する父に睫のありにけり〉はいかがですか。

高●んんん、細かいことを言うようですが、「昼寝する」の口語と「ありにけり」の文語が同居してしまうというのは、どうしても…(笑。

さ●あはは。それはねえ…流派によっては、それを言挙げしたらキリがないところがあって…。やはり「昼寝せる」ですか。

高●ことばの調子を統一させるなら、「昼寝せる」ですかね。でも、天気さんとしては、やはり「する」じゃないと、こしのさんのいいところが出てこないと?

さ●いや。それは「せる」でいい(笑。

高●あ、そうなんですか(笑。「せる」なら、私もいい句だと思います。

さ●私は「する」「せる」くらいにはこだわらない。いいかげんというか。

高●えっ!(笑 一語一語にこだわらないと…。

さ●それはたしかにそうなんです。でもね、心の中で「赤」を入れちゃいます。

高●あはは。

さ●なんか、むちゃくちゃなことを言ってますね。でも、そういう愛し方があっていいじゃないですか。

高●いや、私は、こしのさんが何かの意図があって、「昼寝する」にしているのかな、と。

さ●そうでしょうか。何も考えてないほうに賭けます(笑。そこがレアなわけで…。まあ、それは冗談として、流派によっては、口語・文語の混淆をかなり大幅に許容しているようです。

高●古語と現代語が混じり合う魅力も、作家によって、句によってはあります。でも、この場合は違うな、と。

さ●そのへんはまた別におもしろいテーマではありますね。現代俳句の口語と文語。それは別の機会に譲るとして…こう言って別の機会が来るためしがないんですが(笑、ともかく、そろそろ、まとめ…まあ、まとめなくていいんですが。

高●はい。『コイツァンの猫』もおもしろい句がたくさんあります。〈姉家族白鳥家族食べてばかり〉とか。

さ●助詞もなく並列されているところいいですね。

高●はい。そこでひとつ思うのですが、ふたつのものをただ並列するという方法はどうなんでしょう?

さ●アリだと思います。『コイツァンの猫』には、むしろ動詞が邪魔になっているケースが目立つように思いました。

高●そう思います。

さ●動詞だけじゃなく、言い回しが…。

高●ええ。おもしろい二物を見つけていらっしゃる。それをそのまま並べるほうがいいのではないかと思ったりもしました。結び付け方によって、もともとの偶発性のおもしろさが損なわれるケースもある。

さ●興味深い指摘・着眼ですね。それは、読者をもっと信頼していい、ということでしょう。そんなに言い回さなくてもいい、という…。

高●そうです。そこまで言わなくても、おもしろさはちゃんと伝わる。

さ●今日、お話をお聞きしていて、こしのさんと高柳さんは、おもしろい二物を掴んで取り出すところまでは同じなんだと思いました。これは意外な発見でした。

高●微妙なものの照応を狙っているところは同じだと思います。

さ●ただ、仕上げ方が違う。

高●はい。おたがい違う方法論を持っているのだと思います。

さ●そういうところをアタマに置いて、高柳さんの第一句集『未踏』を読ませていただくと、別のおもしろさが見つかるかもしれません。ありがとうございました。気づかなかったことをいろいろと教えていただきました。

高●はい。ありがとうございました。

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