2009-08-09

〔週俳7月の俳句を読む〕菊田一平 礎石はも・・・

〔週俳7月の俳句を読む〕
菊田一平
礎石はも・・・


点々とざりがに殻が滝壺に  生駒大裕

大学に入って上京するまでザリガニを見たことがなかった。そういうと不思議な顔されるが、まじ本当。本土からたった2、3キロしか離れていないのに、ぼくの生まれた島にはザリガニはおろかゴキブリさえもいなかった。今はカーフェリーが頻繁に行き来するようになってザリガニもゴキブリも島に渡ってしまった。けれども50年前には確実に海が生態系を分離していた。で、見たことがないから「ザリガニの殻が点々と滝壺にある」という景がわからない。が、素潜りでアワビや海胆を採るたびに、蛸が隠れている岩の穴の入口に蛸が食べた貝の殻が点々と散らばっているのをしばしば目にしたことがある。察するに、ザリガニの殻が散らばる滝壺の奥には、ザリガニを餌とするぬるっとした得体の知れないものが潜んでいるのではあるまいか。そんなことを想像したりもする。

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蟇の恋大金もてば憂かりけり  
藤田哲史

通勤途中にある池袋駅東口の宝くじ売り場は「あたりくじがよく出る売り場」のひとつらしい。1億円何本、2億円何本、3億円と、当り本数を書いたポスターが何枚も貼り出してある。サマージャンボ発売最終日の今朝も駅構内まで長蛇の列が伸びていた。大金と縁のないぼくは「大金持てば」の措辞を読んで、即座に、宝くじを当てて小躍りする作者の姿を条件反射のように思い浮かべたのだけれど、結末は意外にも「憂かりけり」。面妖な!と思わぬ肩すかしにたたらを踏んだ。いやいやこれも有りかと思いつつも、とぼけて可笑しみのある「蟇の恋」と入ったのだから素直に肯定的に詠んで欲しかったなとも思う。

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樟脳舟小学校の匂ひかな  
瀬戸正洋

「樟脳舟」はやったことがないけれど、まだ青い松ぼっくりのヘタをはがして木製の舟の後部に貼り付け、水を張った盥に浮かべてはよく遊んだ。ヘタから水に溶け出す油が動力となって舟を動かすのだ。溶け出す油の勢いだけが動力だから推進力なんて微々たるもの。肥後の守でくりぬいた丸木舟が、傾きながらゆっくり動き出すと手をたたいて喜んだ。作者は「樟脳舟」の匂いを「小学校の匂ひ」ととらえた。いいなあ、この飛躍と想像力。まさに樟脳舟はセピア色のかなたの「小学校の匂ひ」に違いない。
  
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星影を零してからすうりの花  
大川ゆかり

いつか完璧に咲いたからすうりの花を見たいと思っているが、ついぞその機会がないまま今に至っている。というのもからすうりは夕方から開花を始め、2~3時間で開ききって朝にはしぼんでしまうのだ。雌雄異株の雌花の、「五弁の先から伸びた糸状の列片が絡まりもしないでみるみる伸びていく」という説明を読んだだけでわくわくする。庭先にでもあれば一晩中観察していたいところだが、吟行の関口芭蕉庵、井の頭公園、浜離宮などで見るのはいつもしぼんでオレンジ色に変色し始めたものばかり。まさに「星影を零して」密かに咲くんだろうな。開花に遭遇した作者がとてもうらやましくなった。

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礎石はも茂りに浮沈たのしめり  
水内慶太

ほんとこの句は何もいってない。何もいってないから作者の思いを読み手は勝手に自分に引きつけて読む。例えば7月も終りの国分寺の礎石跡。青芝は伸び放題に伸び、茂りのそこここに礎石が点々と散らばっている。あるものは完璧な形で残り、あるものは傾いたり、欠けたり、ひっくり返ったり、茂りに埋もれかけたりしている。創建からすでに千年以上の歴史が流れている。後ろ手に立ってそれを眺める作者の脳裏に芭蕉の「夏草や」の句がよぎる。ただの石にもどった礎石たちが草いきれの海を飛び跳ねるイルカやシャチたちのように思えた。助詞の「はも」に、礎石の上を流れた時間への万感の思いが込められている。

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夕立の後の五右衛門風呂に父  
今井 聖

田植えの季節になると母や集落のひとたちは本家の田植えの手伝いにいった。本家の風呂は大きな五右衛門風呂だった。田植えが終わった母たちは何人かで風呂に入り、風呂場から聞き覚えのあるいくつもの声が聞こえてきた。母を迎えにいって声をかけると「入れ」と一緒に入ることになった。板を沈めて入る五右衛門風呂がめずらしくて田植え時が嬉しかった。さてこの句、「夕立の後」「五右衛門風呂」「父」の道具立てもさることながら、句またがりのリズムがとてもいい。くわえて五右衛門風呂に入っている父と作者との距離間がなんともクールで微妙で心憎い。 

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法被着てビートルズとや梅雨晴間  
山口珠央

ビートルズの初来日は1966年の6月29日。雨の羽田に番傘と法被で降り立った。ビートルズの名前を初めて目にしたのは妹が読んでいた少女まんがの『りぼん』でだった。松島トモ子が、ミュージカルを勉強しに渡ったニューヨークから毎月ひとこまマンガ入りの軽い読み物をレポートしていた。マッシュルーム頭のメンバーが、エレキギターを鳴らし、ブーツの足を高々と上げているカット。記事は、リバプールからちょっと下品なメンバーがニューヨークにやってきた、で始まる、品のなさへのやや否定的な内容だった(そんな時代もあったんだ)。中七の「とや」の「戸惑いのような」切れに、ふと山口さんの、松島トモ子の戸惑いと似た思いを感じた。・・・。あらためて切れの効果効用を再認識した。

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七夕色紙術前のひと術後のひと  
高澤良一

ひとつき前、娘を過労で入院させてしまった。両親の介護でふた月ほど妻が鹿児島の実家に帰り、その間の家事一切の切り盛りを任せてしまったこともその一因だった。薬の副作用で高熱がで、肝臓を冒されて黄疸にかかった。見舞いにいくたびに症状の変化に一喜一憂した。病院のホールには七夕竹が飾られ、入院患者たちの色とりどりの短冊がにぎやかに吊るされていた。そのひとつひとつを読むことはなかったけれど、掲句のように手術前のひとのもの、手術後のひとのものも含めて、たくさんの願いが書かれていたはずだ。高澤さんの「僧帽弁閉鎖不全再生手術」と題する一連の句に胸をつかれた。「最後の管抜けシャワー浴ぶ」この解放感はいかばかりだったろう。術後の速やかな回復をお祈りしたい。




藤田哲史 飛行 10句 ≫読む
生駒大佑 蝲蛄 10句 ≫読む
瀬戸正洋 無学な五十五歳 10句 ≫読む
今井 聖 瞬間移動 10句 ≫読む
水内慶太 羊腸 10句 ≫読む
大川ゆかり 星影 10句 ≫読む
高澤良一 僧帽弁閉鎖不全再手術 10句 ≫読む
山口珠央 海底 10句 ≫読む

1 コメント:

匿名 さんのコメント...

上田五千石の句に「春潮に巌は浮沈を愉しめり」があります。水内慶太氏は、五千石の弟子にあたる方のようですので、同氏の句は師に対する挨拶句ではないかと思いながら読ませていただきました。素材とその扱いの違いの中に、師弟の共通点や相違点が伺われるようで、興味深くも思いました。眼前の景であれ、時の流れの果ての景であれ、この世に対する深い愛着、愛惜を両者の句に感じたりしました。まさに、「万感の思い」なのでしょう。
鑑賞にあるように、この句は何も言っていない、と思います。良句の多くはこの句のように直接には何も語っていない。ただ、例えるなら語られる内容を盛る器に当たる物をきちんと詠っておられると思います。「礎石」「茂り」がそれにあたります。この眼の確かさは、五千石ゆずりなのでしょうか。それに師の表現を踏まえた「浮沈たのしめり」が、五千石の「春潮」の句を思わせつつ、それとは全く違う世界を構築しているように思われ、ごく自然に重層的な鑑賞を読者に可能にしてくれているようです。