2009-08-09

〔週俳7月の俳句を読む〕田島健一 さかのぼることができない

〔週俳7月の俳句を読む〕
田島健一
さかのぼることができない


私たちに見えている世界は、私たちのなかにある何か別のものに置き換えられることによって、あたかもそこが自分の永遠の居場所であるかのようにその場所を占め、意味を形成する。

〈現実〉は、あたかもそのようにして形成された意味の塊の最先端から私たちに訪れるのだが、そのような〈現実〉は、置き換えられた意味を遡及するなかで、私たちの既知に還元され、安定する。

私たちの既知に還元され、安定した〈現実〉はもはや〈現実〉ではなく、「意味」づけされた日常性と化してしまう。

俳句は、そのような日常化された〈現実〉ではなく、むしろまだ呼び名を持たず、混沌とした得体の知れない〈現実〉そのものである。

だとすれば、私たちの既知に還元することができず、安定することができない、ということが、俳句という〈現実〉の重要な要素であるということになる。


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噴水に浮くボールペン商都翳る  
今井 聖

掲句は、ボールペンの居場所としてはあまりふさわしくない「噴水」という場所が、商都の翳りのなかにおかれることで、ボールペンは私たちの内側で「葛藤」し、私たちが既に知っている「意味」へ遡及しようとするが、うまくさかのぼることができない。

「意味」へさかのぼることの抵抗感が、意味の多様性を生み、意味の多様性があたかも予感された「ドラマ性」として、読者のなかで広がる。(あらためて言うまでもなく「ドラマ性」とは「葛藤」である)


夏始るバトン落とせし少女から
消防車洗ふ三人夏木立

などの日常性と比較して、商都の噴水に浮かぶボールペンは、馬鹿馬鹿しくもあり、ずっと悲しげである。

全身が緑夜の奇祭君抱けば

はむしろ「君抱けば」により、奇祭の「奇」の部分を既知に還元しようとしすぎている。それよりもむしろ、

花南瓜見れば必ず焦土思ふ

の方が「焦土」のもつ違和感がそのまま生かされている。

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指輪コツリとカップを持てる薄暑かな  
藤田哲史
大盥箸浮き皿は沈み夏
理論的には夜は朝となる空涼し

などの日常性は、ほとんど散文の断片のようであり、俳句という形式で切り取る必要があるのか甚だ疑問である。
むしろ注目すべきは次の句であろう。


火のような杉見て夏の菊を切る

言うまでもないことだが、「火のような杉」を、安易に「杉のような火」というように置き換えることはできない。

「火のような杉」が「杉のような火」ではない、ということは、ここでの「火」と「杉」とが形式の類似性に加えて、不可逆的な「何か」を持つということである。


この不可逆的な何かを支えているものは、作者の「主体性」である。

つまり「火」と「杉」との間にある形式の類似性以上の不可逆的な何かを支えている作者の主体性が「夏の菊を切る」。

日常性に還元することのできない〈現実〉が、俳句の上でシリアライズされるということが、俳句における奇跡であり、その奇跡を実現する「時間的差異」こそが、作者の「主体性」なのである。

俳句を読むということは、おそらくこの「火」と「杉」との距離を読むことなのかも知れない。

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その他、気になった句

あぢさゐの水鏡なら臥すははに  
水内慶太

いちはつや大粒の雨降りはじめ  
大川ゆかり

呼気大気薫風四辺に充ちゐたり  
高澤良一

海底に拾ふ象牙や涼しかる  
山口珠央



藤田哲史 飛行 10句 ≫読む
生駒大佑 蝲蛄 10句 ≫読む
瀬戸正洋 無学な五十五歳 10句 ≫読む
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水内慶太 羊腸 10句 ≫読む
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