スズキさん
第21回 不二家ネクター
中嶋憲武
おはようございますと僕が挨拶を返したそばから、朝いちで出るからねとスズキさんは言った。荷物は昨日のうちに車に積んでおいたらしい。年に一度のサンバカーニバルの日なので相当の人出が見込まれ、混まないうちに配達を済ませてしまうのだろう。朝からじりじりと暑い。最高気温は33度と予想されている。サンバが終れば夏も終りだ。夏の終りの一日のはじめ、スズキさんと車に乗り込んだ。
数日前、昼ごはんを食べているとき、もうすぐサンバだねとスズキさんがぽつりと言った。はあ、そうですねとイカフライを齧ってから気のない返事を返すと、スズキさんはデザートのプリンをひとくち食べてから、去年は行ったんだっけと聞いてくる。仕事終ってから行きましたよと答えると、大変だったでしょと言う。なにがですか。いや踊りがさ、すぐそばに裸に近い人が来てゆさゆさしたりするから、もうナカジマ君なんて大変だろうと思ってさ。興奮しちゃって。イカフライを咀嚼しながら考える。興奮したっけかな。目の行くところには目が行ったけど色っぽい興奮はしなかったように思う。打楽器と声の迫力に興奮したことは覚えている。スズキさんは興奮しますか。いや、僕はもう。去年興奮しましたよ。そうか、よかったよかった。去年もパレードを見て興奮するかしないかという事を振られたような気がした。
「ほらほら、あすこ」スズキさんの言う方を見ると、大きな荷物を担いだ一団が道路を横断しているところだった。
「あれ、サンバの人たちだよ。きっと。これからどっかで着替えるんだね」
出た。あれ、サンバの人たち。去年も配達の車のなかでスズキさんはこう言って、道行く人たちを全員サンバの人たちにしてしまったのだった。
しばらく走ると、あれもサンバだなとスズキさんは呟いた。まるまると太った中年のおばさんが二人、荷物を担いで歩いている。
「今日のサンバに僕の知り合いが出るんですよ」
「へえ、何番目に出るの?」
「なんでもいちばん最後だそうです」
「最後?そりゃ優秀な連だよ」スズキさんはチームと言わず、連という言い方をした。
「ジャグリングをやるんだそうですよ」
「どういう知り合い?俳句の?」スズキさんは僕が俳句をやっていることを知っている。
「ええ、まあ」
「脚立持ってった方がいいよ。あるだろ?店に。小さいやつ。社長に言って持ってくといいよ」
「かなり見えないですもんね。借りようかな」
「そうするといいよ」
「スズキさんも観ますか」
「そうだねえ」スズキさんは行くとも行かないとも分からないような曖昧な返事をした。
配達を終えて、浅草寺山門の手前を折れてそろそろ行く。そろそろと車を進めながら、なにか飲もうかと自動販売機をすこし過ぎたあたりでスズキさんは言った。こういう場合、いつもスズキさんに御馳走になっている。たまには僕がと言っても、いいよいいよと言われ、すっかり甘えてしまっている。
車を停めて、スズキさんが小銭入れを出す。買ってきてと言われ、小銭入れを受け取る。黒い合成皮革の丸っこい小銭入れ。いつもずっしりとしている。
車から降り、自動販売機に硬貨を入れる。スズキさんは紙パックのグレープフルーツジュース。僕はリアル・ゴールド。
停めた場所は人通りが多いので、すこし動かそうかと言ってスズキさんは車をのろのろと前進させる。いただきます。言ってからリアル・ゴールドを飲んでいると前方の自動販売機が目に入ってきた。NECTARの文字が見える。しかも100円だ。その自動販売機の手前で停車させるとき、スズキさんはうーむと言いながら、失敗したと言うように舌打ちした。その舌打ちに少なからず共感する気持ちがあったので、
「スズキさん、何がよかったですか。飲み物。本当は」と聞いてみると、ん?あすこにあるネクターと言って赤い缶の方を見た。
「僕もいま気がついたんですが、ネクター、いいですね」
「うーん、失敗したね。100円?」
「100円です」
「失敗したね。あんまり見かけないものね」
「そうなんですよ」
「ネクターの隣りの黄色い缶は?ネクター?」
「ネクターです。マンゴーですね」
「マンゴーか。失敗したね。100円?」
「100円です」スズキさんはしみじみと嘆息を洩らした。ネクターはいつ発売されたのだろう。小さい頃、ピーチのネクターが好きだった。カルピスと並んで昭和の香りのする飲み物だ。飲むたびにつくづくと美味しいと感じる。
土曜日は仕事が早めに終る。すべて片付け終えて時計を見ると、4時を少し回ったところだった。早い。土曜はおおむね5時頃終るのだが、なにしろ今年の夏はひどかった。未曾有の不況下で仕事が来ず、印刷機を掃除している時間の方が長かったような気がする。うちへ来る業者も取引先も顔には出さないが、内心どうしていいかわからずとまどっているのだと分かった。
作業場とすこし離れた倉庫の二階で、作業用のポロシャツとジーンズから着替えて帳場へ倉庫の鍵を持って行くと、今年中学生になった社長の娘さんが、犬の散歩へ出かけるところで、犬たちは帳場に座っている社長のお母さんや、スズキさんに愛嬌を振りまいていた。この娘さんは中学に入学した頃、セーラー服がうれしいのか帰ってきてもなかなか脱がず、僕は「ドラマで見てあこがれのセーラー服に袖を通し、身も心も軽くなったようだ。これからこのセーラー服を着て毎日通学するのだと思うと、大人になったようでなんだかわくわくする。心無しか、ひらひらと舞う紋白蝶もわたしを祝福してくれているようだ。これからセーラー服のままで犬のお散歩」というような内容の俳句を一句作ったことがある。娘さんの連れている三頭の犬は長毛種のダックスフンドで、それぞれマーゴ、ヴァネッサ、サンドラという呼び名がついている。社長が知人から譲り受けたもので、名前は知人が女優の名を取ってつけたのだと言う。
この三頭のうち、マーゴという黒毛の彼女とは相性が合わず、マーゴは僕の姿を見かけると、勢いよく吠える。ヴァネッサとサンドラはおっとりしていて、なついてくれたがマーゴだけはさっぱり駄目だ。鍵を返しに帳場へ行き、マーゴと目が合うと途端に吠えられた。マゴちゃん駄目でしょとスズキさんは、マーゴの顎を撫でながら言う。それでもマーゴがうるさいので、鍵を置いて挨拶をすると、さっさと引き上げた。
サンバの会場へ向かう。スズキさんは来なかった。脚立も返すことを考えると面倒なので、借りなかった。ひとりでサンバへ向かう。ひとり、ひとり、カムイと昔のアニメのテーマソングが不意に浮かんで鼻歌を歌う。たしか水原弘が歌っていたはずだ。忍風カムイ外伝。
六区も仲見世もいつもの倍以上の人出だ。なかなか前へ進めない。伝法院へ差し掛かる頃には、サンバのパレードの打ち鳴らす太鼓の響きが遠雷か海鳴りかとばかりに轟いていた。太鼓の響きは心をわくわくさせる。前進は意のままにならない。時間が気になる。気ばかり焦る。
馬道の沿道は人で埋め尽くされ、車道も段ボールを敷いたり、携帯用の折りたたみ椅子に座ったりして、びっしりと人の列が出来ている。どこか見やすい隙間はないかと物色して、人にぶつかりながらのろのろ歩き、松屋の前あたりまで行ったとき、わずかな隙間があったので入れさせてもらった。パレードの一団が過ぎ、すぐ前で見物していた人がどこかへ行ってしまったので視界が開けた。一歩前進して鉄柵へ寄った。オカモト君は最後のチームと聞いていた。時間を考えてみるにあと二つくらいだろうか。
あれこれと衣装や演出を凝らしたチームが過ぎ、待っていると次のチームが二天門の方からこちらへパレードして来ている。このチームがそうかなと思っていると、分銅のコスチュームの一団が来て踊った。この一団の次にジャグリングのチームがいたので多分そうだと分かった。ジャグリングの一団は、棒磁石のコスチュームだ。NとSというアルファベットを付けている。先頭で銀色のスティックを振り回しているのがオカモト君だろうかと目を凝らしているうちに、一団は過ぎて行ってしまい、方位磁石のコスチュームの一団が来て、そのコスチュームがあまりに斬新なのでそちらへ目を奪われてしまった。このまま雷門の方へ行き、そこで審査員による審査がある。審査はテーマ、躍動感、衣装、踊り、音楽といった項目別に点数を付けて行われるようだ。サンバを見たのは今年で二回めだが、生の声の合唱と太鼓の音がとてもよい。このエネルギーには圧倒させられる。全日本女子バレーがいくらやってもブラジルに勝てない理由も頷けるような気がする。丹田に籠る力の差が、根本的に違うのだ。
月曜日、どうだったとスズキさんに聞かれ、オカモト君のチームが優勝したんですよと言うと、スズキさんは、あそう、はじめて参加で優勝ってすごいね。よかったよかったと言った。
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2009-09-06
スズキさん 第21回 不二家ネクター 中嶋憲武
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