2009-09-06

八田木枯掌論 角谷昌子

八田木枯掌論
「世に棲む日々」10句を読む

角谷昌子

八田木枯 世に棲む日々 10句  ≫読む

国に恩売りしことあり蠅叩く


蠅除のうすあさぎいろなだれたる

蠅帳のなかで死にたる蠅ありき

蠅打つて滅私奉公してをりぬ

夜に入りて蠅帳の目の峙ちぬ

八田木枯は、「ホトトギス」の長谷川素逝、橋本鶏二らに師事し、十代から骨格正しく格調高い客観写生の句を作っていたが、昭和二十二年、二十三歳のとき、保養中の山口誓子を訪ね、その門に入った。その後は、「ホトトギス」系俳句誌に投句することを止め、延々と引き継がれてきた季題趣味的な情緒をかなぐり捨て、己の俳句を求めて行く。

平成七年に刊行された第三句集『あらくれし日月の抄』の「あとがき」に、「私の俳句理念は若き日に薫陶を得た山口誓子先生の語録の裡にある。」と書き、誓子のことば「俳句は極限の詩である。『物』は感性で捉え、『物と物との関係』は知性で捉えて表現せよ。(俳句とは)感性と知性の美しい融合である。」が、句作りの背骨となったことを表明している。

誓子の蠅の句に〈蠅は地を愛せり露に唇をあて〉〈蠅憎めばすこし離れしところにゐ〉〈蠅とまるわが体温を喜ぶのか〉などがある。これらは、蠅の生態を凝視しつつ、作者の存在が濃く立ち上がってくる作品である。このような誓子の句を見据えながら、木枯は、季語の本意を踏まえた上で、さらなる役割を「蠅」に与えようとした。

中村草田男は、季語に象徴性を持たせた魁の俳人であるが、木枯は、季語に、象徴性とともに魔力をも授けた。掲出句のように、「蠅」なる季語は特別な力を得て、一人歩きするのである。
「世に棲む日々」の「蠅」は、日常生活の中に不意に現れる、わずらわしい害虫であるとともに、軍国主義、国粋主義の喩、象徴のようにも思える。

〈国に恩売りしことあり蠅叩く〉〈蠅打つて滅私奉公してをりぬ〉では、かつて大戦中、「お国のために」と散って行った兵隊はじめ、空襲や原爆で命を落とした一般市民、また死には至らなかったけれど青春を捧げて「滅私奉公」した者たちの代わりに、作者が国の罪を告発している。ただし、戦争の犠牲者、被爆者という被害者としての受身で嘆くのではなく、「国に恩」を売ったのだ、と一歩踏み出して捉えたところに特徴がある。そしてここでは、軍国主義の化身でもある「蠅」が、いとも無造作に打ち据えられている。そこにアイロニーや諧謔があり、したたかさがある。

〈蠅除のうすあさぎいろなだれたる〉〈蠅帳のなかで死にたる蠅ありき〉〈夜に入りて蠅帳の目の峙ちぬ〉からは、いまでは食卓でほとんど見かけることもなくなった「蠅帳」が、怪しい存在感を示す。  

「蠅」除けの役目を荷う「蠅帳」が、「なだれ」たり、「目の峙」ったりして、なにやら危うげである。蠅帳をすり抜けて、なかで死んでいる蠅もあり、「蠅帳」の脆さが露呈してもいる。忍び寄る軍国主義への危機感を読み取ることもできるが、解釈は、読者に委ねられている。いずれにしても、さらっと読み流すことのできない怖さが滲んでいる作品だ。

チンドン屋片足あげて勤行す

チンドン屋末法の世の鉦を打ち

チンドン屋踊りくねつて世を拗ねて

踊らねばならぬと踊るチンドン屋

チンドン屋踊る生々流転かな

「チンドン」の所以は、鉦の「チン」と胴太鼓の「ドン」の音からきたとも言われる。また、チンドン屋の始まりは、江戸末期から明治初期の、口上を述べ楽器を演奏して飴を売り歩いた飴売りや、大道芸ともされている。

鉦や太鼓を打ち鳴らし、商店街を練り歩く「チンドン屋」を、私も幼いころ目にした記憶がある。派手な衣装と化粧、華々しい音楽は、かなり注目を浴びるので、宣伝効果はあったのだろうが、どこかうらぶれた寂しさが、まとわりついていた印象が残る。いま、若い人たちが軽いノリで軽妙な音楽と踊りを繰り広げる、体育会系の「チンドン屋」とは、大いに異なる。

詩人の北村太郎は、チェンバロの音楽を「にぎやかな哀しみ」と表現したが、「チンドン屋」にも、なにやら当てはまることばではなかろうか。

木枯が昭和二十二年に〈鳥交る世にチンドン屋ある限り〉を『現代俳句』に発表したところ、加藤楸邨が取り上げてくれたという。

さらに後年、楸邨と同じ人間探求派である草田男は、第六句集『母郷行』に、「チンドン屋」十一句を群作として発表している。草田男の句は〈汗が糸ひく紅を血と拭きチンドン屋〉〈チンドン屋すずむヒタと世寂かになし〉〈白塗り十指そよがしチンドン屋すずむ〉などである。季語を俳句の母胎と考える草田男は、チンドン屋の句にも、季語を欠かさなかった。

これに対して、今回発表された木枯のチンドン屋の句は、無季である。強いて言えば、「踊り」は季語とも考えられるが、作者は、あえて季感を排除し、句に普遍性を与えようとしていると思われる。  

〈チンドン屋片足あげて勤行す〉〈チンドン屋末法の世の鉦を打ち〉では、あたかも一遍上人の踊り念仏の一団のようだ。チンドン屋は、野の聖として衆生を救い己を救うため、あえて俗世に身を置き、「末法の世の鉦を打ち」「勤行」を続ける。

〈チンドン屋踊りくねつて世を拗ねて〉〈踊らねばならぬと踊るチンドン屋〉〈チンドン屋踊る生々流転かな〉は、表舞台には立てぬ運命を背負い、ひたすら踊り演奏するチンドン屋の一途さが浮かび上がる。それはあたかも、この世の栄達を捨てて、漂泊の旅に身をゆだねた、西行や芭蕉の姿にも重なる。

だが、西行や芭蕉が文芸への志を抱き、風雅の道を貫いたのに比べ、「チンドン屋」は、あくまで俗塵にまみれた求道者である。いや、道を問うという大上段に構えた志もないだろう。「世を拗ね」ながら、己の分をわきまえ、ひたすら踊り続ける。死んでは生まれ変わりつつ幾世を経ても民草として、哀しみを影のように曳きながら。

ここに、彼の世この世と往還しながら、生と睦み、死と親しむ、作者の死生観が反映していようか。

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