2009-09-27

柏原和男の一句 長谷川裕

鉄かつぎ歩む炎天誰も怖れじ柏原和男の一句
長谷川 裕

初出:『塵風』創刊号・特集「無頼」(2009年6月30日・西田書店)


戦後文学における無頼派という名称は坂口安吾の『堕落論』にはじまるようだが、安吾はべつに無頼を気取ったわけではなかろう。思ったとおりを書いただけである。太宰にせよ織田作之助にせよ、そうであったはずだ。彼らを無頼派と呼んだのは、人に依り、かつ依らせることを生業とする編集者たちの思いこみ、あるいは憧れではなかったのか。

「無頼」などと大上段にふりかぶると、黙々と日々の暮らしをくりかえすどこにでもいる普通の人びとから、なんだいそりゃ、そんなの当たり前だよ、毎日やってることだよ、と笑われてしまいそうな気がする。

いわゆる無頼派と呼ばれた戦後作家たちは新戯作派であった。ふだん着の口語体によって、あふれるように饒舌であろうとしたわけだが、あの時代、いかに語りつくすかが言葉の本意であったということであり、無頼とはまたべつのことだ。

いや、私が語りたいのは饒舌ではない。無頼についてである。

無頼とはなにか。それは物書きやヤクザ、博打打ちといったアウトサイダー、アウトローだけの特権ではない。依らず頼らず、自由を希求する者ならば、誰しも等しくそなえている生の本源ではなかろうか。

生からあらゆるものを引き剥がしていく。すると、最後に残る核心はその生以外のなににも依らぬものであることがわかる。それは交換不能の絶対孤独である。いかなる権力、道徳、正義、良識といえど、孤独の王国に君臨するひとりの王をその王座から引きずり落とし、入れ替えることはできない。無頼とは王の孤独の別称である。
昭和三八年二月二三日 夕刊読売大阪版
二十三日午前三時すぎ大阪市西成区山王町一の暗がりで同町二の一、山﨑アパート内、無職柏原和男さん(三二)がグレン隊ふうの男二、三人に取り囲まれて口論、うち一人が短刀らしいもので柏原さんの左モモ、手を刺して逃げた。付近の人が血まみれで倒れていた柏原さんを見つけ一一〇番へ急報、西成署のパトカーが相原第二病院へ収容したが出血多量で間もなく死んだ……(略)
俳人柏原(かしはら)和男、享年三十一歳。釜ケ崎の労務者であった。

大阪市西成区山王町は萩ノ茶屋の南東に位置する、いわゆる旧飛田遊郭である。一九六一年の第一次暴動以来、行政によって「あいりん地区」と呼び変えられた釜ケ崎の中心からすこし離れているが、古来から釜ケ崎にふくまれる地域だ。柏原が倒れていたのは、一九八〇年に廃止された南海平野線の踏切から三十メートルほど西側だったというから、現在の高速道路のあたりであろうか。

犯人は不明だが、殺すまでのつもりはなかったのではないか。腿を刺したのはそのためだろう。しかし、柏原は動けぬまま失血死した。二月の厳寒のさなか路上に人が寝転がっていても、さして不思議とは見なされぬ界隈である。幾人かが柏原の横を通り過ぎていったかもしれない。

「孤独死」というメディアが作り出した言葉がある。莫迦を言ってはいけない。死はどれも孤独死にほかならぬ。家族に看取られ、ベッドの上で息を引き取ろうが、冷たく乾いた路上で誰からも顧みられることなくのたれ死にしようが、王は誰しもたったひとり、孤独に消えていく。

ともあれ柏原和男はそのようにして死んだ。前年の暮に生まれたばかりの娘と、まだ入籍していない女性を山王町のアパートの一室に残して。

柏原和男は一九三一年、宮崎県東諸県郡高岡町に生まれた。髙岡高等小学校を卒業後、町の工場で働きながら自宅で句会を催したり、同人誌を発行するなど、俳句と詩に熱中する。NHKのラジオ文芸に応募し、入選作が放送されたともいう。

一九五〇年には故郷を出て、大分在住の俳人、田原千暉宅へ転がり込み、田原の主催する俳誌『飛蝗』(のちに『菜殻火』から『石』へと変わる)の同人となる。朝鮮戦争の勃発した年であった。

田原千暉は一九二三年生まれ、新俳句人連盟の会員。長崎原爆忌平和祈念俳句大会で活動したり、『日本平和句集』を編纂するなど、いわゆる「反戦平和」の俳人である。俳句で訴える反戦平和など、いかなる有効性もないと思うが、ここではそんなことはどうでもいい。ひとまわり年上の田原は柏原をなにくれとなく可愛がったようだ。柏原は宮﨑を去り、各地を転々とするなかで『石』への投句をつづけ、『石』の年間賞を受賞している。柏原の死後八年を経て上梓された遺句集『播州路』も、田原の尽力で出版されている。

柏原が「再軍備絶対反対胸まで焚火」などという、愚にもつかぬ句を作ったのは、田原や栗林一石路らから受けた影響であろう。同じ柏原の句でも「仕事にありついたカストロひげ万才」のほうがはるかにマシだ。朴訥に革命の英雄カストロに明るいものを見ようと願った柏原の気持ちが痛々しいぶん、ということだが。

一九五四年、柏原は田原のもとを離れ、以後、各地を転々とする。生活の糧を求め、東京、大分、名古屋、広島、大阪の工事現場、鉄工所、港湾などを流れていった。その間、印刷工や紙芝居屋などの職歴もあるらしいが、どの仕事にも落ち着くことはできなかった。三年後の一九五七年、病を得て帰郷、国立の療養所へ入所することとなる。

一九六〇年、三年間の治療生活を経て快癒した柏原は、しばらく田原千暉宅に逗留したのち、ふたたび大阪へ。釜ケ崎へ定住し、日雇い労働者となる。このとき釜ケ崎の「裸の会」が発行する月刊誌『裸』の会員となった。「裸の会」の会長は西成警察署防犯課の松原巡査部長であり、松原は柏原の告別式において散文詩の弔事を読み上げている。ちなみに柏原は第一次釜ケ崎暴動のさい、警棒で頭を割られているのだった。

さて、柏原の俳句である。

 生くる身や或は氷に靴滑り

 焦心や石もて蟻を追いまくり

 箒売り風に抗う片手がない

 宙天にざくろの哄笑許しおく

 髪染めた私娼キャベツがまぶしいか

 高架線がゆすぶる裸ではみ出た児ら

 短日の交む鶏見る疲労かな

 溶接工が囃すよ地表の紅い女

 血を売る話コンクリートの陽が屈折

柏原のドヤにおける暮らしぶり、感慨を率直に詠ったものである。いま流行している口当たりよろしき軽音楽的俳句にひきくらべ、断然と肉体の言葉ではある。が、率直にいって言葉の彫り込みが浅く、いまひとつ掴みきれていないように思える。どこかにできあいのコンテクストに依った匂いが感じられ、そのぶんひっかかりを欠いて、句全体の強さが損ねられているように思うのだ。政治的主張を訴えた句は数が多いが、論外である。

同じ釜ケ崎を詠った句というならば、

 焚火蹴り焚火の匂う血を売りに     遠藤野放

 ステテコにポケットが無い握りこぶし  遠藤野放

 灼けレール股ぎ無籍の児を胎む     西矢籟史

 牡蠣剥き身翻しひるがえし死につらなる 有本孫之介

などのほうが私にとっては説得力がある。

だが、私は柏原和男という俳人の名をつぎの一句によって強く頭に刻みこむ。この一句だけで柏原和男は十二分に王たるに値する。

 鉄かつぎ歩む炎天誰も怖れじ

誰も代わって鉄をかついではくれぬ。またかつぐことはできぬ。たったひとりで歩むゆえに柏原は無頼である。孤独な生の王たりえている。世間の目、いわゆる良識、それがなんだ。俺はここにいる。こうして生きている。なにを遠慮する必要があるものか。王は誰も怖れない。

掲句は敗戦直後、大胆に性を詠った句によって「俳壇」に衝撃を与え、人知れず消えていった鈴木しづ子の

 コスモスなどやさしく吹けど死ねないよ

と対をなし、戦後句の金字塔となっているように思う。

私は柏原のこの一句に、貸本劇画家の平田弘史を思い出していた。平田弘史は一九三七年生まれ。柏原よりひとまわり下の世代である。平田の父は天理市で水道ポンプ店を経営しており、平田は小学生のときから仕事を手伝わされた。中学校に入学しても、家業を手伝うために授業はほとんど受けられなかったという。

平田の父は平田が十七歳のときに亡くなり、それからは六人兄弟の長男として一家を支えて働くことになる。その当時を回顧して平田は「自分史」のなかでつぎのように書いている。

「泥だらけの長グツに作業着、重い道具を担いで……薄汚れた身なりで電車に乗っていると、白眼視されているような気がして、エリートや綺麗に着飾った人びとに対して乱暴な口の利き方や態度をした。ガタガタ吐かすんならパイプレンチでドタマ張ったる……そんな心境だった」

平田はのちに大阪日の丸文庫から貸本マンガ家としてデビューする。平田が『士魂物語』や『つんではくづし』など、数多くの時代劇画を描き、貸本店の読者層に多くのファンを得たのは、ちょうど柏原が釜ケ崎で暮らしていた一九六〇年から六三年にかけてであった。柏原ははたして平田弘史の作品を知っていただろうか。

柏原和男が流浪を重ね、ひとつの職業に定着できなかったのは、貧しさや小学校卒という学歴ゆえではなかろう。おそらくは子供のようにどこまでも無邪気に自由を求めていたからだ。柏原は窮屈な世間にいかようにしても適応できなかったのではないか。だから、あちらこちらと移動していった。ドヤに住んだのは気楽だったからだろう。いわゆる職場の人間関係というものに縛られずにすんだからだろう。

釜ケ崎での柏原はけっこうモテたようだ。「結婚するような相手ではないが」「女には不自由しな」かったそうである。柏原は「インテリ」だったのだ。そのインテリだったぶんだけ世の正義にかすめとられてしまい、彼の句は無頼性を損なわれたのではなかったか。

だが、「鉄かつぎ」の一句は、掛け値なしに王の吐き出した言葉だ。ここには世間の道徳、正義を一蹴する強さがある。そのとおりだと唸らせる。生涯、一句か二句、このぐらいの句を吐ければ、人はそれで十分なように思う。

本来、俳句は自己表現とか文学といった近代のくびきからずっと自由なものなのではないか。生そのものの持つ無頼性を暴力的に記すものではないのか。そしてそれは不可視の自由をわれらに現前させるのではないか。

柏原和男が遺した、ひとつの句がそんなことを思わせるのである。


※本論は『俳句研究』一九六四年八月号およびインターネットサイト「柏原和男」(http://ripzip.jp/kashiharakazuo/)を参照した。

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