〔週俳9月の俳句を読む〕
野口る理
言葉を物として
盆花に母がおほかた隠れけり 柴田佐知子
お盆の準備をしている、小さな母の背。 どこか優しい手触りの盆花に囲まれた母は、 花の中へ隠れてゆくようだ。花の色に母の匂いがする。 その姿を見ていると、いつか自分が準備している姿を思う。 そのお盆の頃には、母は完全に花の中へ隠れてしまうだろう。 そして、準備している自分もまた、花の中へ隠れるように。
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葉脈に余白の温み青芒 高遠朱音
細い芒の葉の長い葉脈。 葉の葉脈のないところは、葉隙(ようげき)と呼ぶそうだ。 葉に葉脈があるのではのではなく、 葉脈があり葉脈のない隙間があって葉、ということか。 その葉脈のない余白の部分から、 葉脈へむけて温みが伝えられていく静かな生命力。
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澄む秋の木魂の出でてゆきし樹か ふけとしこ
秋の澄んだ空気の中で、 森のなにもかもから凛とした気配がする。 木々に触れながら歩いていると、 それぞれに違う生命を持っていることに気づき、 少し尊敬してみたり、少し憐れんでみたりもする。
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さはさはと神を背負ひし稲の波 石地まゆみ
平たい田の稲の高さを変える風。 神様に重さがあるとするなら、 稲を揺らすくらいのものなのだろうか。 風や波のエネルギーの源への不思議が自然に。 さはさはと、という言葉の優しさに、安心感を抱く。
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新宿ははるかなる墓碑鳥渡る(福永耕二)
信(しん)じゆくは
遙(はる)かなる穂(ほ)
ひとり渡(わた)る 外山一機
信じてゆくものに、黄金に輝く穂。 そして、一人で渡っていくのだ。(なんだか冒険物語っぽい) サルトルによれば、 「詩的態度とは言葉を記号としてではなく、物として考えること」だそうだ。
散文家は、すでに、言葉の意味性に包囲された存在であるのに対し、 詩人は、言葉と出会うとき、言葉のなかに言葉のイマージュを見出すのだ。 俳句って詩だったよなぁ、と思い出すような気持ちがした。
■柴田佐知子 花 野 10句 ≫読む
■高遠朱音 立 秋 10句 ≫読む
■ふけとしこ 人の名 10句 ≫読む
■石地まゆみ 少女期の 10句 ≫読む
■外山一機 俳人としての私 10句 ≫読む
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2009-10-11
〔週俳9月の俳句を読む〕野口る理 言葉を物として
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