2009-11-29

きままな忠治 第1回 関東無宿 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第1回 関東無宿
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)

二十代のころ故郷の上州を離れ、すでに五十年の歳月が流れた。人生の大半を他郷で生きたことになる。そんな歳月を背負いながら、私のなかの故郷の色彩が最近微妙に変化していることに気づく。

若いころの私のふるさとのイメージは上州の山河であった。荒涼の山々や、そこに流れる荒瀬の音がすぐに聞こえてきた。しかし、最近私のなかのふるさとは、もっと人間に向かうことのほうが多い。いいかげんでずるがしこく、ちょっと卑猥、そしてそんなことに享楽している村人の姿。ほんとうはもうそんな状態もないのだろうが、いまの私のなかのふるさとはそんな場所なのである。

そんな気持ちを下敷きにしながら、上州に生きていた人間像、それも成功のなかに名を残した人びとでなく、もっと土臭くあの国の土に生きてきた庶民を書いてみたいと思う。

国定忠治はそんな人間の代表であろう。

この稿は忠治を中心として書いていくが、それはあくまでひとつの材料に過ぎない。あくまでその背景のほうが、私にとっては大事なのである。したがって、この内容もどこへ飛んでいくのか自身でもわからない。「気ままな忠治」と題するしだい。

  人生半分渡世半分日向ぼこ  仁

群馬県には、国定忠治の供養碑が二つある。ひとつは伊勢崎市国定町の養寿寺にある。忠治は嘉永三年(一八五〇年)一二月二一日、同じく上州の大戸(現吾妻町)の関所で処刑されたが、その妾であったお徳が刑場から首と手足を盗み出し、当時の国定村の養寿寺の住職貞然に首をあずけて埋葬したといわれるもの。墓碑には「長岡忠治之墓」とある。

ただし、この墓石は二代目である。初代のものはギャンブルのお守りなどのため削りとられてゆき、上の部分がほとんど欠けてしまったため、現在は本堂に安置され、その後、忠治の血縁筋(忠治の弟友蔵の子)長岡利喜松氏によって、現在のものに建て替えられた比較的新しいもの。やはり削りとられるため鉄柵に囲まれている。

そしてもうひとつは、同じ伊勢崎市曲輪町善應寺にある「情深墳」と名づけられたもの。こちらの墓碑名には「遊道花楽居士」とある。さきに述べた妾お徳が、自宅の庭に埋葬していた腕をあらためて供養するため建立したとある。

この二つの墓は伊勢崎駅、国定駅といずれもJR両毛線沿いにある。巷間すでに知られていることだが、両毛線は別名「ギャンブルライン」または「オケラライン」といわれる。この沿線に高崎競馬、前橋競輪、伊勢崎オート、桐生競艇、足利競馬という公営ギャンブルがあったためである(ただし、高崎、足利は現在廃止となった)。

国定忠治は文化七年(一八一〇年)上州は佐位郡国定村に生まれた。この地はその後佐波郡東村となり、平成の大合併により現在は伊勢崎市に変わっている。まさに地名滅びて人名が残ったのである。

父は長岡与五左衛門、母は伊与、長岡忠次郎が本名。国定はそのときの地名である。

すでに二百年も昔の、たかが一博徒が、なぜこれほどまでに名を残しているのか。近年になっての東海林太郎や島田正吾の果たした役割はもちろんだが、もっと以前、江戸後期よりこの名は地元では著名であったという。その地元の噂にマスコミが乗ったのである。

それでは、なぜ忠治の名が地元にこれほどまでに浸透していたのか。まず当時の関東地方の農村の状況を考えておく必要がある。

文化七年は江戸時代の末期である。幕府では老中の松平定信が辞任して、将軍が德川家斉に代わったころ。家斉は天保八年(一八三七年)に将軍職を家慶に譲ったあともずっと実権を握り続け、いわゆる大御所時代を作りあげたひとりである。その放漫な政治は、享楽的、営利的な風潮を社会にもたらし、商人の活動を活発化させたが、しわ寄せは農民に広がっていった。

関東周辺ではそれがとくに顕著であった。このころから関東では飢饉が続き、農村の荒廃はますます進み、政治の腐敗と治安の乱れはしだいに高まっていった、そんな時代である。

武蔵国では中山道鴻巣宿から秩父郡まで、上野、下野、常陸、下総、佐原あたりでは、追放処分を受けた者や旧離(親またはその近親が縁を切り、役所に届け出て人別帳から外すこと)、勘当、欠落(重税、貧困からよその土地へ逃亡すること)などの「帳外者」が無宿となり、みずからを「通り者」と称していた。やがてそうした連中の実力者が親分となり、長脇差などを帯して闊歩するようになってゆく。それまでは村掟などに縛られて、自由を得られなかった若者がしだいにその埒外に飛び出してくるのである。

そのころから上州を中心とした農村地帯では養蚕が発展し、農民のこの収入を求めて、賭博がとくに盛んになっていった。

忠治の生まれた上州国定村は、赤城山の裾野が果てるところにある。冬はこの山を越えたいわゆる赤城颪のまともに吹き下ろしてくる村。

そこは当然貧しく、農民は虐げられていた。

赤城山麓のこの付近からは、忠治をはじめ大前田栄五郎、島村の伊三郎などという博徒の集団が生まれている。さらには、渡世人ばかりではなく、多くの犯罪者が生まれた。川井村の無宿政吉、福嶋村の無宿巳之吉、そしてわが高崎では、当時の上乗附(かみのつけ)村の無宿長次郎など……枚挙にいとまがない。人心の荒廃とともにいかにこの地の農民が困窮していたかがよく窺えるのである。

さて忠治、十七歳のとき殺傷事件を起こしたが、このとき匿われたのは大前田栄五郎の元である。さらに二十五歳、天保五年(一八三四年)、島村の伊三郎を殺傷、信州に逃れていく。

(つづく)


▲養寿寺にある忠治の墓。墓石は二代目だが、先代同様に削られている

▲養寿寺山門

▲善應寺にある「情深墳」と名づけられた忠治の墓

写真:長谷川裕

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