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2009-12-20

きままな忠治 最終回 旅の終わり 斉田仁

きままな忠治
国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空

最終回 旅の終わり

斉田 仁


初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)

忠治、一茶の生きた文化、文政時代を一部では化政時代などという。当時の社会状況はまえにも書いたが、ここではもっと詳細にそれを見てみたい。

八代将軍吉宗のおこなった享保改革。明和、安永、天明にいたる田沼意次の重商の時代。その反動としての松平定信の寛政改革。化政時代はこのような大きな三つの変動のあとの時代である。

農村では生産力が高まると同時に、当然そこに格差が生じる。豪農はますます富み、いわゆる貧農の土地までもみずからのものにしてゆく。現代と同じ格差である。

それに反して田沼意次の重商政策によって、江戸を中心とした都市はしだいに繁栄する。農村からあぶれ出す農民が増えていくのは自明である。

あぶれるということは、いままで閉じ込められていた枠の外に脱出することである。農村という衆の世界から個の世界へ出ていくということでもある。個人としての厳しい生活がひとり歩きをしてくる。現実は険しいが、やっと農民の一部にも自我や自由が芽生えてくる。

農村から落ちこぼれた人間はどこへ向かうか。一茶のように江戸へ入り、その片隅で自らの居場所を探すのが割合自然な生き方であろうが、反して忠治のように自身の産土にとどまり、そこに農とは別の生き方を模索しようとした者もいた。江戸という大都市のなかでいわゆる士農工商という身分制度の下で、社会の下積みとなって生きるのか、生国の隅で社会から弾かれた生き方を選ぶのか、忠治と一茶の分かれ目はこんなところではあるまいか。

私は忠治のなかに空っ風に抗う上州人の典型を見るが、一茶のような雪国では、その抵抗がもっと別の形であらわれたのではないかと思う。

雪国に暮らすことは雪に耐えることである。自然に抗ってもなんの得もない。ただひたすら耐えるしかないのである。

忍耐こそ反逆なのである。黙って自身や身の回りを見つめている。風と雪の国に住んでいたまさに不敵な二人の生き方であった。だから私はこの二人の立場にあるものは、同根であると思うのである。一見まったく別の世界にあるようだが、農村という昔からの世界からあぶれ、なんとか自身を浮かびあがらせようとしたそんな生き方に、まさに幕府崩壊の兆しを感じてしまうというのはいい過ぎだろうか。

ここまで書いて私は『享和二年句日記』のなかのつぎのような句を思い出している。

 ひとりなハ我星ならん天川   一茶

 

天保四年(一八三三年)。この年は天候が不順であった。春から長雨が続き、夏になっても冷夏であり、奥州を中心に甚大な被害をこうむった。

米の不作は翌年以後も続き、とくに上州では、天保七年(一八三六年)が未曾有の凶作となった。享保、天明と並んで、近世日本の三大飢饉と呼ばれる天保の大飢饉である。

全国の収穫高は三分の一に減少し、それによる米価は天保三年の一両で八斗八升三合五勺程度から、しだいに上がりはじめ、天保八年二月には、江戸で二斗六升二合と記録的に高騰した。この五年間で実に三、四倍の上昇率である。

ときまさに徳川十一代将軍家斉の時代、寛政改革の質素倹約の精神はしだいに忘れ去られ、文政年間の通貨の大量流通により、幕府財政は湯水のように浪費され、大都市を中心とした商人もまた富んでいった。そこには町人文化の花も開いていった。

しかし、平和ボケした武士が華美に走り、商人が力をつける一方、これらに搾取された農民、とくに零細な小作農はみずからの土地さえ失い、困窮の度を深めていった。

上州の農村は基本的には米作に適さない土壌である。浅間山の噴火による火山灰が風に乗って毎年降りそそぎ、土壌は痩せている。かろうじて平地に米を作り、山地ではわずかな野菜を栽培していたが、主要な生産物はやはり養蚕である。筆者の少年時代まで、まだまだ桑畑が多くあった。戦時中この桑畑を開墾し、畑作などに転向したが、どうしても自給を中心としたものから脱することができない時代が、戦後の昭和三〇年代まで長く続いたのである。

そんな土地を耕す上州の農民は、葛や蕨、野老(ところ。やまのいも科に属す救荒植物。髭根の多い根茎を食べた)、木の実などでかろうじて飢えをしのぐありさまであった。

さきにのべた関東代官羽倉外記はその状況を視察するため、下総、下野、上野の支配所の村々を回ったが、飢餓にすさむ農民を見て、心を痛めた。その状況を『済?録(さいしろく)』という名の巡回記録に残している。この書は現在京都大学付属図書館に蔵されているというが、私は未見である。

羽倉外記はのちにそのときのことを『劇盗忠二小伝』として別に書き残している。こちらはすでに多くのものに発表されていて著名である。

その一部につぎのような一文がある。
土人云ク、山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス、嗚呼我輩ハ民ノ父母タリ、而劇盗ヲシテ飢凍ヲ拯シム、之ヲ聞キ赧汗浹背シテ縫入ルベキ地無キヲ恨ムノミ
私の貧しい知識で要約すれば、「山中に数十人の子分とともに、忠治というおたずねものの賊が隠れている。昨年の冬以来、たびたび山を下りて飢餓の貧民に米銭を与え助けている。本来は代官のこちらが救助しなければならないのに、この劇盗のおかげで農民を飢えや凍えから救ってもらっている。恥ずかしさのあまり、赤面して背中まで汗でぐっしょりである」となろうか。

さきにのべた大惣代渡辺三衛門の克明な日記のなかにも、忠治が「窮民ニ金一両ニ米一俵麦一俵ツツくれ遺し候事、人は知処なり」と記されている。

忠治伝説は現代の歌や芝居ブーム以前に、すでにこのころからはじまっていたのである。さらにはこの付近にあった磯沼という沼の浚渫までもおこなったふしもある。

江戸時代末期から明治初期に遊女の間に流行った「くどき節」にもつぎのような一節がある。
其や悪事ハかずかさなれど、あのやいぜんのききんの年に米が三合わり五合で、其日ぐらしのなんぎなものへ、うばい取りたる其大金を、なんぎくるしむ其人々へ、忠治のこらず皆わけくれる
実際に忠治が飢饉の農民に米などを贈ったのか。上にあげた倉外記の文章も、また聞きであり、忠治を美化しているふしがあって、その真実は不明である。しかし、そういう伝説が伝わるところに上州という地の意味がある。

あくまでも権力に盾突き、たとえ博徒であっても民衆の側に引き寄せようとする心、これこそが上州人なのである。

さきにのべた空っ風に向かって抗う上州人、同じ土地に生まれたものとして私にはこの気持ちがよくわかる。

関東取締出役、いわゆる関八州廻りや火附盗賊改などにたいする批判が農民の間にもすでに芽生えていた。徳川幕府を単純に受容してきた農民の意識がやっと壊れはじめたいってもよい。幕府の崩壊は直接的には薩摩や長州の力ではあろうが、底流にはこんな衆愚の心がこめられているのではないか。

これこそが東国人なのである。

 

前節では、忠治の名が大衆の間に浸透してゆくきっかけのようなものを書いた。ここでは同じ意味で一茶がなぜ今日でも不思議な人気を持ち続けているのかを考えたい。

一茶が江戸に丁稚奉公し、俳諧を覚えていくいわゆる化政期は、最盛期の川柳の名残がまだまだ生きている時代であった。そしてそこから派生した狂句が流行し、題目に従って句を作る発句作りもまた盛んであった。

前句付けなど、大衆の雑俳も流行していたが。このころになると、それよりも一句題詠のほうに人気が移っていったようである。一句題詠とはひとさまの句に付けるのではなく、終始をみずからの責任で作るということである。

いうならば、幕府の圧政に押しつぶされていた庶民が自我に目覚め、みずからの精神を世に問おうとした時代といってもよいのではないだろうか。俳諧的には近世のはじまりといってもよい。ひとさまの尻馬に乗って遊ぶだけでなく、自我だけの世界に入っていこうとする初めての庶民の抵抗といってもよい。

しかし単純には喜べない。そんな端的な事柄だけでこの時代まで続いた月並みを抜け出すことができなかったことは、俳諧の歴史が証明している。

具体的に一茶までの俳諧は、たとえば、一定の日に宗匠の元に集まり、連句を巻くという座であったが、蕪村の時代から一句の発句の会がおこなわれるようになっていった。そして、一茶の時代になると、「月並の集句」とか「月並句合」といったものがいろいろ工夫されていった。

月並という言葉は、もともと「月次」と呼ばれ、たとえば「月次連歌」などとして王朝時代からあったというが、これが月並に変わって頻繁になってくるのはやはり江戸のころである。

井原西鶴の『物種集』のなかに、「大阪中俳諧月次日」などという一項目が見られるが、こんな用い方はこのころが最後なのではあるまいか。一定の日を決めて宗匠の下に集まり、句会をやる、文字どおり「月並」である。

「月並の集句」とか「月並句合」というのがこのころから盛んになってきている。催主が神社の献額、寺のご開帳などに合わせて句合わせを催し、宗匠のなかから選ばれた点者が題を出す。そして花代とともに句を募集し、それを宗匠が選をして天、地、人などといった順位に従って賞金や賞品を出すといった方法である。なんのことはない、現在の新聞や雑誌やイベントでおこなわれているものの原型なのである。

ともかく、こんな方法のなかから庶民の間に俳諧がひろがっていったのである。

江戸ばかりでなく、地方へもこれがますます浸透し、奥州路あたりの村の入口には、「俳諧師入村おことわり」といった立札もあったという。わずかな金を求めて、庶民を食い物にする輩も当然いたわけである。

こんな状況のなかで、当時の一茶はなにをしていたのか。

彼の十六歳から二十歳の江戸にあったあいだの消息は不明である。しかし、このころ奉公した馬橋の油屋大川立砂の影響で一茶も上記のような句会へ顔を出していたことは当然考えられるのである。この立砂の紹介で天明五年(一七八五年)には今日庵森田元夢の門に入り、さらに天明七年には、葛飾派の宗匠二六庵竹阿の門人ともなっている(のちの寛政一二年〈一八〇〇年〉、一茶はこの二六庵を襲名する)。

こののちの一茶は、上総をはじめとして、遠くは京阪、西国、四国、九州に旅をするなどいわゆる宗匠の道を着々と歩んでいくわけだが、私がここでいいたいのは一茶の今日でも衰えない人気はそんな土壌を基として築かれているということである。

さきにのべたように、俳諧が俳句と変わり、そのなかに盛り込む内容もしだいに現代的なものに変わってきてはいるが、方法としての俳句は、現代でもあまり変わっていない。庶民のなかに生きている俳諧の根本は、いつの時代でもある意味で同じなのである。

しかしこの時代の月並俳句はほとんどが今日では生きていない。正岡子規に「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調という」(明治二十八年『俳諧大要』)と一刀両断されてしまっているが、私はこのころの俳諧を、とくに地方にあった俳諧をもっと丹念に拾うことによって、ただたんに「月並」として捨て去ることのできぬ、一茶ともちがう別のものが見えてくるはずだと思うのだがどうだろうか。

ともかく一茶が月並俳諧に埋もれなかったその原因は、みずからの身辺のか弱いものに目を向け、それを平俗なる表現で詠んでいくという方法にあるのだが、私はその背景の一つとして、一茶に自然に備わっていたアニミズムを挙げたいのである。

アニミズムといっても日本独自のアニミズム。

雪深い信州のなかに育ち、偏屈で吝嗇であった一茶独特のものである。学んで会得できるものでもなく、生い立ちや環境のなかから自然に備わってくるものであろう。

私は国定忠治にもそのアニミズムを見る。それは生国のなかで痛めつけられた者の共通な精神が生んだひとつの世界であろうと思う。

そのアニミズムは誰でも感受できる素朴でリアルなものだ。忠治や一茶の今日的意義はまさにそこにある。

 

稗史(はいし)という言葉がある。

歴史のなかで、勝者でも支配者でもなく、ただそれに翻弄されながら、しぶとく生き続けた民衆、庶民の歴史である。本当の時代とは、いわゆる教科書にあるものではなく、こんな民草の奥底にあったものなのではないのだろうか。

時代にうまく取り入り、その潮流に乗った者が、成功者として歴史に残り、忠治のように時代に逆らった者は、単なるアウトローとしてしか名をとどめていない。

時代はすこし下るが、上州のさらに北の村から明治十七年(一八八四年)に起こった蚕民の決起、群馬事件なども今日では公式な記録はほとんど残っていない。わずかの資料からその輪郭はうかがえるが、これも権力に葬り去られてしまった稗史である。東国である上州はいつもこんな宿命のなかにある。

忠治の時代、博徒は普通十手も預かっていた。いわゆる二足の草鞋である。権力にうまく取り入りながら、その権力をまた利用していた。

しかし、忠治だけはこれに反発した。生涯二足の草鞋を履くことはなかった。オカミに逆らったのである。当然、権力からすれば罪人となっていった。

すこし立場はちがうが、一茶もまた権力の側に立つことはなかった。往時の俳壇はいわゆる宗匠俳句、神格化された芭蕉の名を使って、宗匠として弟子を集め、自らの名声と保身を保っていた。

この状況は今日でもあまり変わらないのではないか。俳句の形や方法は多少異なっても、そのときどきの流行に乗ったものを作り、仲間内での名を売っているのはまったく同じである。

一億総中流、総白痴化という幻想に酔っているといってもよい。ここからちょっと外れた人間の怨念などは誰も見向きもしないのである。

一茶は忠治のようにじかに権力に刃向かうことはしなかったが、つねにここから落ちこぼれた弱いものに目を向けていた。俳諧という形式と方法を使って。

忠治も一茶もその根っこは同じである。

周辺という社会から疎んじられ、屈折した心のなかに独特のアニミズムが生まれていった。

二人とも風の強い、あるいは雪の深い国に生まれ、いったんは生国を離れた。すこしそこを離れることによって、もう一度、故郷を見つめなおしていた。そのことに私はなにか奥深いものを感じるのである。すこし遠くから見ることによるさらに熱い思いを。しかし、二人とも最後には、またそこに戻ってきた。

一茶は最後にそこで病み、そこで死んだ。

そして忠治は………。

 

国定忠治の実録が残っている資料は私の知るかぎりつぎのものだけである。

忠治像のほとんどがのちの大衆芸能のなかに埋もれてしまっているが、それを軽視してはいけないことはすでにのべた。大衆芸能のなかに生き残った原因をもうすこし丹念に探ることによって、その実像がおぼろに見えてくる場合もあるのだ。

ともかく私の駄文となった資料を列挙しておく。

『劇盗忠二小伝』顎軒文庫三至録付録  国会図書館
『赤城録』我為我齊叢書        旧高等師範
『赤城録』旧高等師範蔵書印      筑波大学
『赤城録』(版本)簡堂遺文       吉川弘文館

この資料自体ものちの人聞きのもの、あるいは類想のものもあり、本当に真実を伝えているのか不明な点もあるが、ともかく往時の風潮を色濃く伝えていることはまちがいない。

このすくない資料から、生国を同じくする者として忠治の実在像を組み立ててみたのである。

江戸末期という時代を背景としての忠治像、これは多くの普遍的な見方である。これは上記の資料からも十分読み取れる。

しかし私はさらにその上に生国の血というものを深く感じるのである。そのために、わずか十数年の重なりではあるが、ともかく同時代に生き、上州と信州という隣り合った地に生まれて、中百姓を継がずに己の道を歩んでいった小林一茶を登場させたのである。

平成のいま、忠治や一茶はどんどん忘れられていく。一茶の作品は別の意味で残っているが、泥臭いそのアニミズムは語られることはない。明るすぎる近代というもののなかでは、権力に反抗したり、社会に拗ねたりした実像は、あまり思い出したくないのだ。

万葉集にある防人の時代から、忠治の江戸期、そして絹産業を支えた養蚕の明治、大正、昭和初期、上州はつねにその底流にあった。支配される者の側にあったのだ。当然そこに抵抗も生まれる。この地の民衆の歴史はまさにそんなことのくり返しである。そしてそれこそが上州人の血なのである。

そんな立場からの国定忠治がはたして諸氏に伝わっただろうか。

忠治の晩節とその最後を書いて、責を果たしたい。

天保十三年(一八四二年)、老中水野忠邦は十代将軍家治を最後に中断していた日光社参を、六十七年ぶりに復活させようと企てた。おりから天保改革のまっ最中、やや揺らいできた幕府の権力を誇示するのがおもな目的だったという。ときの将軍は家慶、この権威をさらに高めるためには、行列の通る街道、とくに関八州の治安が非常に重要だったことは論を待たない。

日光礼幣師街道は、江戸からきた中山道を現在の高崎市倉賀野町あたりから分かれていくが、ここから忠治の本拠たる赤城山周辺はそんなに遠いところではない。幕府にとってこの地方の博徒は目障りであったろう。

水野忠邦はこの取り締まりと排除に乗り出したのである。

天保一四年の『続徳川実紀』には、「日光山御詣によて、関東在々の悪党どもめし捕らへぬべしと、其ほとりの大名廿九人に命ぜらる」とある。廿九人の大名とは、武州世田谷の井伊掃部頭を筆頭に、武州川越藩松平大和守、高崎藩松平右京亮、伊勢崎藩酒井出雲守等である。

幕府は総力をあげて、この取り締まりに乗り出したのである。そしてこのときから、国定忠治は反逆者、つまり悪党となってこの国の歴史に刻まれていく。

このころの忠治は皮肉にも、もう老いていた。みずからの力を誇示する機会はしだいに失われていた。跡目を子分の境川安五郎に譲り、妻と愛妾を同伴して、かつて逃亡したことのある会津にでも隠遁しようと考えていたふしもある。しかし結局それはできなかった。頭にひらめいたことはあっても、故郷を捨てることはできないのである。

そして嘉永三年(一八五〇年)七月二一日、突然彼を中風が襲った。

いったんは田部井村の名主宇右衛門の屋敷に保護され、匿われたが、それも長く続かず、その年の八月二四日ついに関東取締の手により捕縛されていくのである。

一〇月一九日、厳重な警備のもとに江戸へ送られた忠治は子伝馬町の牢に入れられ、やがて磔の刑が決まる。かつて信州に逃げるため関所破りをしたことのある、上州の最北大戸の関所がその刑場に選ばれた。

この付近の村々は大いに当惑したという。刑場の準備や警備に駆り出され、費用も負担させられたのである。農民への圧政はこんなところにまでおよんでいたのだ。たとえば、この付近六箇所の村だけで、処刑前日と当日、四百八十人の警護人足が駆り出されたほか、処刑自体の費用も村持ちになったようだ。

そして、一二月二一日、ついにそのときがきた。

『赤城録』はこのときの様子を次のように伝えている。
既ニシテ槍ヲ執ル者 鷺歩斉進 霜鍔鏗爾 面前ニ叉ス
忠囅然トシテ刑ヲ監スル者ニ謝シテ曰ク 此行 各位ノ費心ニ多荷ス 槍手声ヲ釣シ 槍ヲ引キテ左肋ヲ旋刺ス
鋒右肋出ヅルコト数尺 右者モ亦之ノ如シ 左右互ニ刺スコト凡十四ニシテ始メテ瞑ス 時ニ年四十一ナリ
四十一歳、まさに壮絶な最後であった。

権力によって悪の名を付けられた忠治は、このあといわゆる正史としての歴史には登場していない。大衆の間の虚像としては残っても、虐げられた上州の農民のアニミズムという観点からは遠い存在となっていくのである。

衆にこだわるあまり、自らを過信してしまったのである。力だけを信じた芯は弱い人間ではなかったろうか。同じ時代に生きた小林一茶はもっと個に徹していた。相続争いという身内との戦いはあっても、それをあくまでも自身に引きつけ、権力への反抗とはならなかった。同じような境遇に生きながら、それが一茶と忠治との大きな相違である。

ちょっと怪しいが、忠治処刑の前の辞世とやらが残されている。

 見てはらく なして苦敷 世の中に
     せましきものは かけの諸勝負
 やれうれし 壱本ならで いく本も
     かねが身に入る 年の暮かな

忠治の妾お徳が建立した「情心塚」の碑文に刻まれた文言はつぎのとおり。

 以念仏感得  衆辠悉徐滅
 甚深修行者  決定生安養

死して生れた村に戻った男の末路である。


( 了 )

養寿寺にある忠治の碑(写真:長谷川裕)

2009-12-13

きままな忠治 第3回 世に拗ねて 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第3回 世に拗ねて
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)


国定忠治こと長岡忠次郎が生まれた文化七年(一八一〇年)は、小林一茶が『七番日記』を書きはじめた年である。弟との遺産交渉がこじれたり、梅雨のころ桜井蕉雨と行った上総国の旅の疲れもたまり、自らの体の衰えも感じはじめていた時代である。

年齢は四十八歳、信州永住をほのめかしながら、江戸との間を往復したり、若き日からの行脚の地、上総の国をまた訪ねたりする日々が続いていた。

『七番日記』の序に一茶自身こう書いている。
「安永六年より旧里を出て漂泊すること三十六年なり。日数一万五千九百六十日、千辛万苦して一日も心楽しむことなく、己を知らずしてつひに白頭翁となる。」
文化八年六月、上総富津の大乗寺では、残りすくなくなった奥歯を失ってつぎのように述懐している。
「四十余年の草枕、狼ふす草をかたしきて、夜通したましひ消ゆるおそれをしのび、あらし吹舟を宿ゝして、底の藻屑に身を浸すうさをしのぎ、たまたま花さく春にあへば、いさゝかうれひを忘るゝにゝたれど、ほとほと露ちる秋の行末をかなしむ。重荷負ひて休ふごとく、たのしミのうちにくるしミ先立。其折々に齢のひたもの(むやみと)ちゞまり行くことを、今片われの歯を見るにつけ思ひしられぬ。いつの日むしろ二枚も我家ちいひて、人に一飯ほどこさるゝ身となりなば、是則安養世界(極楽世界)なるべし。」
これより十年ぐらいまえから、全国人気俳人番付に前頭として登場するなど、ようやく江戸俳諧の世界での地位も高まった時代である。古き一派である葛飾派を離れ、「一茶園月並」を主催するなど、業俳として俳諧活動に専念する決意をかためていた。

往時の俳諧の世界は、天明三年(一七八三年)三月、暁台主催でおこなわれた芭蕉百回忌取越追善の興業も終わり、すでに芭蕉は神格化、偶像化された人物となっていた。芭蕉の称えた真の俳諧は曲視され、多くの業俳は大衆に迎合し、ただの点数を取り合うものとなっていった。

当然一茶もその世界にあったが、彼はそこから一歩抜け出そうとしたのである。その理由はさまざまに考えられるが、私はこれを一茶の決意とは受け止めていない。むしろ、信濃という片田舎に生まれ、そこに幼少の時代を過ごした一茶の自然のうちに持っていたアニミズムのようなものが、その作品にごく自然に表現された結果だと思っている。

現実生活において鬱積された抑制感、たとえば貧困、孤独、継子といった疎外感が自然に作品に反映され、身の回りにある小さな動物などを詠むことになったのではなかろうか。そしてその結果が皮肉にも大衆迎合の月並俳諧と一線を画すこととなったのではないだろうか。

大きなもの、美しいもの、優雅なるもの、これらに反発することによって、鬱積された己の心の解放を求めたといってもよい。

私の好きな一茶の句のひとつに

 鵙よ鵙ピンチャンするなかゝる代に (七番日記)

というのがある。「かゝる代に」などといいながら、一茶は世の中を批判しようとしたのではなく、世間というもののなかにある小さな鵙という存在に自身の目を向けただけである。

小さな生き物に目を向けるということは、彼の生まれた信濃を見つめるということである。継子ゆえに、遺産争いのもつれのゆえに奉公に出され、十数年も故郷を捨てたこともある一茶も、その晩年はやはり故郷回帰への道をたどったのである。

さらに産土への絶ちがたい慕情が、たとえば芭蕉のように、永遠なるものへの詩情となるといったふうに昇華するのではなく、あくまで単純に、あくまで泥臭く俳諧となっていったのではないだろうか。

今日においても、一茶が底深い人気を持ち続けているのは、たんに頭で考えた俳諧ではなく、肉体を通して物に迫っていった作品を残しているゆえであろう。

もうひとつは、その作品をあくまでも自身の言葉で書いていたということではあるまいか。大胆な俗語、破調や無季……。

 蕗の葉にぽんと穴明く暑(あつさ)哉 (七番日記)
 鳶ヒヨロヒゝヨロ神の御立ちげな (七番日記)
 月よ梅よ酢のこんにやくのとけふも過ぬ (七番日記)
 南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ (享和句帖)
 うき雲や峰ともならでふらしやらと (文政句帖)

一茶が地方宗匠としての地位も確定し、やっと生活に落ち着きもできて、柏原の小升屋の乳母宮下ヤヲ(三十二歳)を娶った文政九年(一八二六年)、生まれ故郷の上州を逃れていくひとりの若者がいた。齢十七歳の長岡忠次郎である。村という社会の体制に反発して博徒への道に入った彼は、この年ひとつの殺傷事件を起こし、八州廻りに追われながら下野の国の大前田栄五郎を頼り、故郷を一時離れていった。

国定忠治という名の初めて登場してくる事件である。

同じような時代、生まれた土地に反骨を持ち、一方は江戸へ、一方は下野へ旅立っていき、晩年は故郷へ帰らざるを得なかった若者二人。その反骨と漂泊について考えてみたい。

 

ふたたび忠治に戻る。

忠治の生まれた上州佐位郡国定村は、当時はどんな状況にあったのか。

文政年間(一八一八~一八三〇年)の記録が残っている。それによれば、戸数百六十四軒、村の収穫高は六百四十石とある。ここから年貢を差し引かれると、一戸あたりの収入は二人が暮らせる程度の微々たるものだ。しかし、実際にはこのほかに桑畑を持ち、養蚕による収入もあるので、とくに貧しいといった状況でもない。だがこの養蚕による現金収入が、皮肉にもやがて農民自身を縛ってゆく結果にもなる。

国定村は幕府の天領である。代官矢島藤蔵がひとりで支配していた。国定村の「根本大先祖」である国定家は昔、新田義貞の家臣であったといわれている。国定家に残された『国定村浪士新古貴賤順席正記』に「古百姓十六軒皆由緒ある浪人なり」として、その十六軒のなかに忠治の苗字である長岡氏姓があるところをみると、先祖は新田義貞の家来だったのかもしれない。

国定村は赤城山の山麓にある。赤城の裾野は長い。この雄大な山麓の西に渋川市、富士見村、前橋市、そして南に国定、薮塚、間々田などの町々がしがみつくように点在している。

冬になると北の上越方面に雪を降らした風が、今度は乾いた空っ風となって赤城山から吹き下ろしてくる。赤城颪である。西上州の人間は誰も皆この空っ風に親しんできた。

この風に向かって立つと、不思議に傲然たる気分になる。

本当は弱い人間が、なにか一丁やってやるかという気持ちになるのだ。

たいしたこともできぬかもしれないが、短い詩や歌ぐらいはできるかもしれないというようになってしまう。

この山麓から萩原朔太郎が生まれ、さらには伊藤信吉、山村暮鳥、土屋文明、村上鬼城などという短詩型のすぐれた作者が生まれたのは、そんな理由からだと私は勝手に思っている。
そのひとり萩原朔太郎は、かつてこの村を訪れ、忠治の墓の前に立った。そして一篇の詩を残している。

 國定忠治の墓  萩原朔太郎

 わがこの村に来りし時
 上州の蠶すでに終りて
 農家みな冬の閾を閉したり。
 太陽は埃に暗く
 悽而たる竹藪の影
 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
 見よ 此處に無用の石
 路傍の笹の風に吹かれて
 無頼の眠りたる墓は立てり。
 ああ我れ故郷に低徊して
 此所に思へることは寂しきかな。
 久遠に輪廻を斷絶するも
 ああかの荒寥たる平野の中
 日月我れを投げうつて去り
 意志するものを亡び盡せり。
 いかんぞ残生を新たにするも
 冬の蕭條たる墓石の下に
 汝はその認識をも無用とせむ。
         ─上州國定村にて─

この詩について朔太郎は詩集『氷島』でみずからつぎのように解説している。
昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。ひそかに家を脱して自轉車に乘り、烈風の砂礫を突いて國定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるへて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐へたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
まことに彼の郷土望景詩である。

当然忠治も少年のころからこの山を見、風を浴びてきた。

忠治の父与五左衛門は桑を栽培し、生糸を紡ぎ、さらには近所の百姓からも生糸を買い集めてこれを近隣の本町村の市場に売るということで、ある程度の生活を続けてきた。

振り返って一茶、彼も貧農の出といわれることがあるが、よく見ると持高六石五升の本百姓の家に育っているので、このあたりの状況は忠治に似ている。

しかし、一茶の父は忠治十歳の文政二年(一八一九年)五月二〇日にこの世を去ってしまう。

忠治が渡世の道に入っていくのはこのころからである。

奔放な衝動により、単調な百姓の生活に飽き足らなくなってしまう。酒を飲み、宿場の飯盛女を相手にする。賭場に出入りするうち、自ら賭場を開くようになってゆく。当然そこに縄張りが生まれ、子分もできてゆく。

忠治のある意味での漂泊の人生のはじまりである。

一茶が江戸に奉公に出されるのは、十五歳のころというから、道はちがうが、このあたり年代的にはよく似た生い立ちである。

忠治は博打打ちとして人を殺め、郷里の普通に働いている農民から孤立し、一茶は継母と義弟から遺産を強引に分配させて、地主としておさまったことにより、地元との乖離を深めていった点も、事情は違うが、似ているところがある。

一茶はその死後から二十五年後の嘉永五年(一八五二年)、その俳句と俳文を『おらが春』として世に残した。

忠治亡きあとの長岡家は弟の友蔵が継ぎ、糸繭商としての才覚をもって財を成す。友蔵は忠治に遅れること二十八年の明治一一年(一八七八年)鬼籍に入っている。

ともかく、忠治は渡世の道をつきすすんだ。

一茶も業俳の道をたどっていった。

世に拗ねながら……。

 国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空    仁



養寿寺の裏手から北方に赤城山(あかぎやま)を望む(写真:長谷川裕)

2009-12-06

きままな忠治 第2回 一茶と忠治 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第2回 一茶と忠治
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)


往時の上州の盗賊を数名挙げたが、そのひとりに上乗附村無宿長次郎という名があった。忠治の記録のなかで偶然見つけた名前だが、その出身地乗附という地名が、妙に気にかかった。というのは、乗附というのは私の出身である高崎にある町だからである。

さらにここは、私の少年時代の遊び場所だったところでもあるからだ。もちろんいまは高崎市の郊外の町であるが、忠治の時代は碓氷郡上乗附村である。

この地名の由来は鎌倉時代初期の公卿そして歌人の藤原家隆まで遡る。家隆は紫式部の遠縁にあたり『新古今和歌集』撰者のひとりである。

その家隆があるとき同門の人びとと、川のほとりで歌を詠みあっており、たまたまかたわらの大石を舟に見立てて一首詠んだところ、突然この石が浮かびあがった。家隆は急いでこの石に乗りこんだ。そこから生まれた地名がこの乗附であるという。ロマンある伝説である。その舟となったお舟石は、現在もこの町の乗附小学校の校庭の一角に残っている。

はじめ各国の国司を努め、のちに宮内卿となり、その後出家して摂津国四天王寺に入ったというこの歌人の伝説が、どうして東国の片田舎に残っているのか不思議である。

その乗附村出身の盗人である長次郎のことを知りたくて、いろいろあたってみたが、残念ながらほとんど記録は残っていない。

ただひとつ、ここからあまり遠くない那浪(なわ)郡福嶋村(現佐波郡玉村町)にいた玉村宿改革組合村の大総代渡辺三右衛門によって書かれた日記『御用私用年中諸日記』『御用私用掛合答其外日記』にわずかにこの長次郎の名が残っていた。それはこの男の盗みの一覧である。
とりあえず挙げれば、

①弘化三年(一八四六年)八月  下瀧村四郎兵衛にて単 物ひとつ、これを二朱二百文で売る
②同年九月  乗附村藤蔵にて木綿堅縞袷ひとつ、これ を高崎本町部屋頭稲葉へ金一分で質入
③嘉永元年(一八四八年)正月  下瀧村にて木綿堅横縞 袷ひとつ、これを下瀧村天田善兵衛へ金二朱四百文にて 質入
④同年四月  下瀧村にて木綿堅縞袷ひとつ、これを下 斉田村質屋へ六百文にて質入
⑤同年同月  中斉田村清六前熊五郎より木綿半天ひと つ、これを下斉田村春吉へ三百文で渡す

等々弘化三年より記録にあるだけでも、新町宿、玉村宿周辺の村から木綿、米、かなべら(鏝の異称)などの着物、農具を盗み、近村の質屋や倉賀野宿の人足部屋へ質入していた。盗品の件数は二十件、金額は二両と銭五千七百文であった。

ひとつひとつはケチな事件であるが、当時の実情背景を考えれば、これが大悪党となるのであろう。

一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて、関東の農村はますます荒廃、博打、地芝居、遊興が盛んとなり、農村社会からはみ出す者も増えていった。このころの社会の掟は共同体からの排除が基本であり、排除された者たちは徒党を組んで、また新しい犯罪予備軍となってゆくことになる。無宿者から博徒が生まれ、その博徒から互いに盃をかわす親分子分の関係が生まれ、貸元である親分は賭場の勢力範囲である「縄張り」を武力を行使して広げていった。

村落共同体から排除された者はそのほかに、親からの勘当、駆け落ちなどもあるが、いずれにしてもその原因は関東農村の貧困にある。博徒のほかに無宿の非人や乞食となった者もいたようだ。

こんな体制からの脱却状態は、多少形は変わっても、現在に通じるものもあるのではないか。

このころの俳諧はどんな状況に置かれていたのか。芭蕉はとうに亡く、蕪村も死に、そのあとに残ったものはおびただしい月並みの山であった。ただひとり、この月並みをすこし逸脱した俳人がいた。

それは小林一茶。

忠治が殺傷事件を起こして下野に逃れ、大前田英五郎の元に身を寄せたのは十七歳のとき、文政九年(一八二六年)。その翌文政一〇年、ふるさとの信濃柏原で大火にあった一茶は焼け残りの土蔵で六十五歳の生涯を終えている。一茶と忠治、この荒廃の時代に十七年間の重なった生がある。

どちらも共同体からの逸脱者であるが、その形や事情にはすこし隔たりがあって面白い。

 

小林一茶と国定忠治が生きていた文化、天保、嘉永の時代、この国はどんな状況に置かれていたのか。おもな事項だけでも振り返ってみよう。

文化元年(一八〇四年)ロシアよりレザノフ長崎に来航、 通商要求
文化五年(一八〇八年)間宮林蔵樺太探検、フェートン号 事件発生
文政八年(一八二五年)異国船打払令
文政一一年(一八二八年)シーボルト事件
天保四年(一八三三年)天保の大飢饉はじまる
天保八年(一八三七年)大塩平八郞の乱、モリソン号事件
天保九年(一八三八年)中山みきによる天理教開祖
天保一〇年(一八三九年)蛮社の獄
天保一二年(一八四一年)「天保の改革」
天保一四年(一八四三年)人返しの法発令、水野忠邦失脚
嘉永六年六月(一八五三年)ペリー浦賀に来航

徳川の鎖国政策にほころびが見えると同時に、虐げられた民衆にやっと外に向く眼が開きはじめたのである。

しかし、これらはあくまで中央、江戸を中心としたこと。忠治や一茶の生きている上州や信濃ではまだまだ遠い出来事であった。

余談だが、この当時の世界は、ナポレオンの即位、ウイーン会議、モンロー宣言、阿片戦争、そんな時代である。

元に戻って、当時の上州と信濃の関係を地理的に見てみよう。

『赤城録』という記録が残っている。過日、筑波大学付属図書館でこの写本に初めてお目にかかった。

筆者は羽倉外記用九またの名は簡堂。上野、下野などの代官を歴任したのちに、老中水野忠邦の推挙により勘定吟味および御納戸頭を兼任、退官後は江川太郎左衛門英龍(坦庵)、川路左衛門尉聖謨(敬斎)とともに、幕史の三兄弟と称された人。この羽倉外記が往時の上野の代官時代のことを書いた記録である。

浅才の私などには読みきれない事項もあるが、そこにこんなことが書いてあった。

天保五年(一八三四年)忠治が島村伊三郎殺害後、信州松本の親分勝太の元へ草履を脱いだことがある。

さらに、天保七年春、弟分の茅場の長兵衛が中野の目明し滝蔵と本陣忠兵衛の次男波羅七(原七)に殺されたと聞き、復讐のため、鉄砲、槍、刀で武装して子分とともに信州に乗り込むが、すでに二人はお上の御用となってしまっていた(ちなみに、このときさきを急いだ忠治が関所手形なしで大戸の関所を通行したのが、のちに磔刑となった原因といわれている)。

上州の赤城山麓を縄張りとする忠治が隣国とはいえ、なぜ信濃とのかかわりを持ったのであろうか。

その大きな理由として信州が関東取締出役の管轄外にあったことが挙げられる。文化二年(一八〇五年)からはじまる関東取締出役は、幕府直轄領、大名領、旗本知行所、寺社領などが錯綜していた関東では悪事をして他領に逃げ込む者の逮捕が困難であり、これらを一括して取り締まるべく設置された。通称「八州廻り」いわゆる関八州を御領、私領の別なく取締まりできるようにしたものである。ただし、水戸藩、川越藩領だけは例外だった。

信州はこの八州廻りの管轄外、罪を犯したものは当然、そこに逃げこむことになる。

現在もあまり大きな変化はないが、山国である上州から信濃へ通じる道は数すくない。一番大きな街道は中山道、しかしここには碓氷関所があった。当然、彼らの道は監視の甘い脇往還、裏街道ということになる。上州の北大戸から信州街道の狩宿、鎌原、大笹、鳥居峠を越え、大笹街道、須坂、長野に抜けるもの。もうひとつは草津道から渋峠を越え、中野にいたるもの。

これらの道は咎人の道であるばかりでなく、一般旅人の道であり、またモノを運ぶ道でもあった。江戸と信州、上州を結び、煙草、米、塩などが多く運ばれたという。

もちろんこれらの脇往還にも関所はあった。信州街道の大戸関所と狩宿関所、大笹関所等々である。しかしこれらの関所の規模は、藩主が努める碓氷関所などに比べると、規模は相当小さく、たとえば、安中藩主による碓氷関所の番頭二名、平番三名、同心五名、中間四名、箱番四名、女改め一名などと比べても、幕府代官の直轄していた大戸関所などは、役人四名、それも交代して務めるものであったという。

この大戸関所を国定忠治も越えている。もちろん手形などはなし。天保五年(一八三四年)、島村伊三郎殺害後、信州松本の親分を頼って旅に出たとき。そして天保七年、さきに書いたように、茅場の長兵衛の仇を取るため、信州中野に乗り込んだときである。

まえに私はこの時代をわずか十七年間だけすれちがった信州の小林一茶の名を書いた。中風のため一茶の死んだのは文政十年(一八二七年)。その前年、忠治は初めて殺傷事件を起こし、下野国大前田英五郎の元に身をよせていた。

私は忠治と一茶の街道でのすれちがいに期待したのだが、忠治が信州に入ったころ、一茶はすでに亡く、どうやらそれは無理というもののようだ。

(つづく)

2009-11-29

きままな忠治 第1回 関東無宿 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第1回 関東無宿
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)

二十代のころ故郷の上州を離れ、すでに五十年の歳月が流れた。人生の大半を他郷で生きたことになる。そんな歳月を背負いながら、私のなかの故郷の色彩が最近微妙に変化していることに気づく。

若いころの私のふるさとのイメージは上州の山河であった。荒涼の山々や、そこに流れる荒瀬の音がすぐに聞こえてきた。しかし、最近私のなかのふるさとは、もっと人間に向かうことのほうが多い。いいかげんでずるがしこく、ちょっと卑猥、そしてそんなことに享楽している村人の姿。ほんとうはもうそんな状態もないのだろうが、いまの私のなかのふるさとはそんな場所なのである。

そんな気持ちを下敷きにしながら、上州に生きていた人間像、それも成功のなかに名を残した人びとでなく、もっと土臭くあの国の土に生きてきた庶民を書いてみたいと思う。

国定忠治はそんな人間の代表であろう。

この稿は忠治を中心として書いていくが、それはあくまでひとつの材料に過ぎない。あくまでその背景のほうが、私にとっては大事なのである。したがって、この内容もどこへ飛んでいくのか自身でもわからない。「気ままな忠治」と題するしだい。

  人生半分渡世半分日向ぼこ  仁

群馬県には、国定忠治の供養碑が二つある。ひとつは伊勢崎市国定町の養寿寺にある。忠治は嘉永三年(一八五〇年)一二月二一日、同じく上州の大戸(現吾妻町)の関所で処刑されたが、その妾であったお徳が刑場から首と手足を盗み出し、当時の国定村の養寿寺の住職貞然に首をあずけて埋葬したといわれるもの。墓碑には「長岡忠治之墓」とある。

ただし、この墓石は二代目である。初代のものはギャンブルのお守りなどのため削りとられてゆき、上の部分がほとんど欠けてしまったため、現在は本堂に安置され、その後、忠治の血縁筋(忠治の弟友蔵の子)長岡利喜松氏によって、現在のものに建て替えられた比較的新しいもの。やはり削りとられるため鉄柵に囲まれている。

そしてもうひとつは、同じ伊勢崎市曲輪町善應寺にある「情深墳」と名づけられたもの。こちらの墓碑名には「遊道花楽居士」とある。さきに述べた妾お徳が、自宅の庭に埋葬していた腕をあらためて供養するため建立したとある。

この二つの墓は伊勢崎駅、国定駅といずれもJR両毛線沿いにある。巷間すでに知られていることだが、両毛線は別名「ギャンブルライン」または「オケラライン」といわれる。この沿線に高崎競馬、前橋競輪、伊勢崎オート、桐生競艇、足利競馬という公営ギャンブルがあったためである(ただし、高崎、足利は現在廃止となった)。

国定忠治は文化七年(一八一〇年)上州は佐位郡国定村に生まれた。この地はその後佐波郡東村となり、平成の大合併により現在は伊勢崎市に変わっている。まさに地名滅びて人名が残ったのである。

父は長岡与五左衛門、母は伊与、長岡忠次郎が本名。国定はそのときの地名である。

すでに二百年も昔の、たかが一博徒が、なぜこれほどまでに名を残しているのか。近年になっての東海林太郎や島田正吾の果たした役割はもちろんだが、もっと以前、江戸後期よりこの名は地元では著名であったという。その地元の噂にマスコミが乗ったのである。

それでは、なぜ忠治の名が地元にこれほどまでに浸透していたのか。まず当時の関東地方の農村の状況を考えておく必要がある。

文化七年は江戸時代の末期である。幕府では老中の松平定信が辞任して、将軍が德川家斉に代わったころ。家斉は天保八年(一八三七年)に将軍職を家慶に譲ったあともずっと実権を握り続け、いわゆる大御所時代を作りあげたひとりである。その放漫な政治は、享楽的、営利的な風潮を社会にもたらし、商人の活動を活発化させたが、しわ寄せは農民に広がっていった。

関東周辺ではそれがとくに顕著であった。このころから関東では飢饉が続き、農村の荒廃はますます進み、政治の腐敗と治安の乱れはしだいに高まっていった、そんな時代である。

武蔵国では中山道鴻巣宿から秩父郡まで、上野、下野、常陸、下総、佐原あたりでは、追放処分を受けた者や旧離(親またはその近親が縁を切り、役所に届け出て人別帳から外すこと)、勘当、欠落(重税、貧困からよその土地へ逃亡すること)などの「帳外者」が無宿となり、みずからを「通り者」と称していた。やがてそうした連中の実力者が親分となり、長脇差などを帯して闊歩するようになってゆく。それまでは村掟などに縛られて、自由を得られなかった若者がしだいにその埒外に飛び出してくるのである。

そのころから上州を中心とした農村地帯では養蚕が発展し、農民のこの収入を求めて、賭博がとくに盛んになっていった。

忠治の生まれた上州国定村は、赤城山の裾野が果てるところにある。冬はこの山を越えたいわゆる赤城颪のまともに吹き下ろしてくる村。

そこは当然貧しく、農民は虐げられていた。

赤城山麓のこの付近からは、忠治をはじめ大前田栄五郎、島村の伊三郎などという博徒の集団が生まれている。さらには、渡世人ばかりではなく、多くの犯罪者が生まれた。川井村の無宿政吉、福嶋村の無宿巳之吉、そしてわが高崎では、当時の上乗附(かみのつけ)村の無宿長次郎など……枚挙にいとまがない。人心の荒廃とともにいかにこの地の農民が困窮していたかがよく窺えるのである。

さて忠治、十七歳のとき殺傷事件を起こしたが、このとき匿われたのは大前田栄五郎の元である。さらに二十五歳、天保五年(一八三四年)、島村の伊三郎を殺傷、信州に逃れていく。

(つづく)


▲養寿寺にある忠治の墓。墓石は二代目だが、先代同様に削られている

▲養寿寺山門

▲善應寺にある「情深墳」と名づけられた忠治の墓

写真:長谷川裕