2009-12-13

きままな忠治 第3回 世に拗ねて 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第3回 世に拗ねて
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)


国定忠治こと長岡忠次郎が生まれた文化七年(一八一〇年)は、小林一茶が『七番日記』を書きはじめた年である。弟との遺産交渉がこじれたり、梅雨のころ桜井蕉雨と行った上総国の旅の疲れもたまり、自らの体の衰えも感じはじめていた時代である。

年齢は四十八歳、信州永住をほのめかしながら、江戸との間を往復したり、若き日からの行脚の地、上総の国をまた訪ねたりする日々が続いていた。

『七番日記』の序に一茶自身こう書いている。
「安永六年より旧里を出て漂泊すること三十六年なり。日数一万五千九百六十日、千辛万苦して一日も心楽しむことなく、己を知らずしてつひに白頭翁となる。」
文化八年六月、上総富津の大乗寺では、残りすくなくなった奥歯を失ってつぎのように述懐している。
「四十余年の草枕、狼ふす草をかたしきて、夜通したましひ消ゆるおそれをしのび、あらし吹舟を宿ゝして、底の藻屑に身を浸すうさをしのぎ、たまたま花さく春にあへば、いさゝかうれひを忘るゝにゝたれど、ほとほと露ちる秋の行末をかなしむ。重荷負ひて休ふごとく、たのしミのうちにくるしミ先立。其折々に齢のひたもの(むやみと)ちゞまり行くことを、今片われの歯を見るにつけ思ひしられぬ。いつの日むしろ二枚も我家ちいひて、人に一飯ほどこさるゝ身となりなば、是則安養世界(極楽世界)なるべし。」
これより十年ぐらいまえから、全国人気俳人番付に前頭として登場するなど、ようやく江戸俳諧の世界での地位も高まった時代である。古き一派である葛飾派を離れ、「一茶園月並」を主催するなど、業俳として俳諧活動に専念する決意をかためていた。

往時の俳諧の世界は、天明三年(一七八三年)三月、暁台主催でおこなわれた芭蕉百回忌取越追善の興業も終わり、すでに芭蕉は神格化、偶像化された人物となっていた。芭蕉の称えた真の俳諧は曲視され、多くの業俳は大衆に迎合し、ただの点数を取り合うものとなっていった。

当然一茶もその世界にあったが、彼はそこから一歩抜け出そうとしたのである。その理由はさまざまに考えられるが、私はこれを一茶の決意とは受け止めていない。むしろ、信濃という片田舎に生まれ、そこに幼少の時代を過ごした一茶の自然のうちに持っていたアニミズムのようなものが、その作品にごく自然に表現された結果だと思っている。

現実生活において鬱積された抑制感、たとえば貧困、孤独、継子といった疎外感が自然に作品に反映され、身の回りにある小さな動物などを詠むことになったのではなかろうか。そしてその結果が皮肉にも大衆迎合の月並俳諧と一線を画すこととなったのではないだろうか。

大きなもの、美しいもの、優雅なるもの、これらに反発することによって、鬱積された己の心の解放を求めたといってもよい。

私の好きな一茶の句のひとつに

 鵙よ鵙ピンチャンするなかゝる代に (七番日記)

というのがある。「かゝる代に」などといいながら、一茶は世の中を批判しようとしたのではなく、世間というもののなかにある小さな鵙という存在に自身の目を向けただけである。

小さな生き物に目を向けるということは、彼の生まれた信濃を見つめるということである。継子ゆえに、遺産争いのもつれのゆえに奉公に出され、十数年も故郷を捨てたこともある一茶も、その晩年はやはり故郷回帰への道をたどったのである。

さらに産土への絶ちがたい慕情が、たとえば芭蕉のように、永遠なるものへの詩情となるといったふうに昇華するのではなく、あくまで単純に、あくまで泥臭く俳諧となっていったのではないだろうか。

今日においても、一茶が底深い人気を持ち続けているのは、たんに頭で考えた俳諧ではなく、肉体を通して物に迫っていった作品を残しているゆえであろう。

もうひとつは、その作品をあくまでも自身の言葉で書いていたということではあるまいか。大胆な俗語、破調や無季……。

 蕗の葉にぽんと穴明く暑(あつさ)哉 (七番日記)
 鳶ヒヨロヒゝヨロ神の御立ちげな (七番日記)
 月よ梅よ酢のこんにやくのとけふも過ぬ (七番日記)
 南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ (享和句帖)
 うき雲や峰ともならでふらしやらと (文政句帖)

一茶が地方宗匠としての地位も確定し、やっと生活に落ち着きもできて、柏原の小升屋の乳母宮下ヤヲ(三十二歳)を娶った文政九年(一八二六年)、生まれ故郷の上州を逃れていくひとりの若者がいた。齢十七歳の長岡忠次郎である。村という社会の体制に反発して博徒への道に入った彼は、この年ひとつの殺傷事件を起こし、八州廻りに追われながら下野の国の大前田栄五郎を頼り、故郷を一時離れていった。

国定忠治という名の初めて登場してくる事件である。

同じような時代、生まれた土地に反骨を持ち、一方は江戸へ、一方は下野へ旅立っていき、晩年は故郷へ帰らざるを得なかった若者二人。その反骨と漂泊について考えてみたい。

 

ふたたび忠治に戻る。

忠治の生まれた上州佐位郡国定村は、当時はどんな状況にあったのか。

文政年間(一八一八~一八三〇年)の記録が残っている。それによれば、戸数百六十四軒、村の収穫高は六百四十石とある。ここから年貢を差し引かれると、一戸あたりの収入は二人が暮らせる程度の微々たるものだ。しかし、実際にはこのほかに桑畑を持ち、養蚕による収入もあるので、とくに貧しいといった状況でもない。だがこの養蚕による現金収入が、皮肉にもやがて農民自身を縛ってゆく結果にもなる。

国定村は幕府の天領である。代官矢島藤蔵がひとりで支配していた。国定村の「根本大先祖」である国定家は昔、新田義貞の家臣であったといわれている。国定家に残された『国定村浪士新古貴賤順席正記』に「古百姓十六軒皆由緒ある浪人なり」として、その十六軒のなかに忠治の苗字である長岡氏姓があるところをみると、先祖は新田義貞の家来だったのかもしれない。

国定村は赤城山の山麓にある。赤城の裾野は長い。この雄大な山麓の西に渋川市、富士見村、前橋市、そして南に国定、薮塚、間々田などの町々がしがみつくように点在している。

冬になると北の上越方面に雪を降らした風が、今度は乾いた空っ風となって赤城山から吹き下ろしてくる。赤城颪である。西上州の人間は誰も皆この空っ風に親しんできた。

この風に向かって立つと、不思議に傲然たる気分になる。

本当は弱い人間が、なにか一丁やってやるかという気持ちになるのだ。

たいしたこともできぬかもしれないが、短い詩や歌ぐらいはできるかもしれないというようになってしまう。

この山麓から萩原朔太郎が生まれ、さらには伊藤信吉、山村暮鳥、土屋文明、村上鬼城などという短詩型のすぐれた作者が生まれたのは、そんな理由からだと私は勝手に思っている。
そのひとり萩原朔太郎は、かつてこの村を訪れ、忠治の墓の前に立った。そして一篇の詩を残している。

 國定忠治の墓  萩原朔太郎

 わがこの村に来りし時
 上州の蠶すでに終りて
 農家みな冬の閾を閉したり。
 太陽は埃に暗く
 悽而たる竹藪の影
 人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
 見よ 此處に無用の石
 路傍の笹の風に吹かれて
 無頼の眠りたる墓は立てり。
 ああ我れ故郷に低徊して
 此所に思へることは寂しきかな。
 久遠に輪廻を斷絶するも
 ああかの荒寥たる平野の中
 日月我れを投げうつて去り
 意志するものを亡び盡せり。
 いかんぞ残生を新たにするも
 冬の蕭條たる墓石の下に
 汝はその認識をも無用とせむ。
         ─上州國定村にて─

この詩について朔太郎は詩集『氷島』でみずからつぎのように解説している。
昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。ひそかに家を脱して自轉車に乘り、烈風の砂礫を突いて國定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるへて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐へたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
まことに彼の郷土望景詩である。

当然忠治も少年のころからこの山を見、風を浴びてきた。

忠治の父与五左衛門は桑を栽培し、生糸を紡ぎ、さらには近所の百姓からも生糸を買い集めてこれを近隣の本町村の市場に売るということで、ある程度の生活を続けてきた。

振り返って一茶、彼も貧農の出といわれることがあるが、よく見ると持高六石五升の本百姓の家に育っているので、このあたりの状況は忠治に似ている。

しかし、一茶の父は忠治十歳の文政二年(一八一九年)五月二〇日にこの世を去ってしまう。

忠治が渡世の道に入っていくのはこのころからである。

奔放な衝動により、単調な百姓の生活に飽き足らなくなってしまう。酒を飲み、宿場の飯盛女を相手にする。賭場に出入りするうち、自ら賭場を開くようになってゆく。当然そこに縄張りが生まれ、子分もできてゆく。

忠治のある意味での漂泊の人生のはじまりである。

一茶が江戸に奉公に出されるのは、十五歳のころというから、道はちがうが、このあたり年代的にはよく似た生い立ちである。

忠治は博打打ちとして人を殺め、郷里の普通に働いている農民から孤立し、一茶は継母と義弟から遺産を強引に分配させて、地主としておさまったことにより、地元との乖離を深めていった点も、事情は違うが、似ているところがある。

一茶はその死後から二十五年後の嘉永五年(一八五二年)、その俳句と俳文を『おらが春』として世に残した。

忠治亡きあとの長岡家は弟の友蔵が継ぎ、糸繭商としての才覚をもって財を成す。友蔵は忠治に遅れること二十八年の明治一一年(一八七八年)鬼籍に入っている。

ともかく、忠治は渡世の道をつきすすんだ。

一茶も業俳の道をたどっていった。

世に拗ねながら……。

 国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空    仁



養寿寺の裏手から北方に赤城山(あかぎやま)を望む(写真:長谷川裕)

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