2009-12-06

きままな忠治 第2回 一茶と忠治 斉田仁

きままな忠治国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空
第2回 一茶と忠治
斉田 仁

初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)


往時の上州の盗賊を数名挙げたが、そのひとりに上乗附村無宿長次郎という名があった。忠治の記録のなかで偶然見つけた名前だが、その出身地乗附という地名が、妙に気にかかった。というのは、乗附というのは私の出身である高崎にある町だからである。

さらにここは、私の少年時代の遊び場所だったところでもあるからだ。もちろんいまは高崎市の郊外の町であるが、忠治の時代は碓氷郡上乗附村である。

この地名の由来は鎌倉時代初期の公卿そして歌人の藤原家隆まで遡る。家隆は紫式部の遠縁にあたり『新古今和歌集』撰者のひとりである。

その家隆があるとき同門の人びとと、川のほとりで歌を詠みあっており、たまたまかたわらの大石を舟に見立てて一首詠んだところ、突然この石が浮かびあがった。家隆は急いでこの石に乗りこんだ。そこから生まれた地名がこの乗附であるという。ロマンある伝説である。その舟となったお舟石は、現在もこの町の乗附小学校の校庭の一角に残っている。

はじめ各国の国司を努め、のちに宮内卿となり、その後出家して摂津国四天王寺に入ったというこの歌人の伝説が、どうして東国の片田舎に残っているのか不思議である。

その乗附村出身の盗人である長次郎のことを知りたくて、いろいろあたってみたが、残念ながらほとんど記録は残っていない。

ただひとつ、ここからあまり遠くない那浪(なわ)郡福嶋村(現佐波郡玉村町)にいた玉村宿改革組合村の大総代渡辺三右衛門によって書かれた日記『御用私用年中諸日記』『御用私用掛合答其外日記』にわずかにこの長次郎の名が残っていた。それはこの男の盗みの一覧である。
とりあえず挙げれば、

①弘化三年(一八四六年)八月  下瀧村四郎兵衛にて単 物ひとつ、これを二朱二百文で売る
②同年九月  乗附村藤蔵にて木綿堅縞袷ひとつ、これ を高崎本町部屋頭稲葉へ金一分で質入
③嘉永元年(一八四八年)正月  下瀧村にて木綿堅横縞 袷ひとつ、これを下瀧村天田善兵衛へ金二朱四百文にて 質入
④同年四月  下瀧村にて木綿堅縞袷ひとつ、これを下 斉田村質屋へ六百文にて質入
⑤同年同月  中斉田村清六前熊五郎より木綿半天ひと つ、これを下斉田村春吉へ三百文で渡す

等々弘化三年より記録にあるだけでも、新町宿、玉村宿周辺の村から木綿、米、かなべら(鏝の異称)などの着物、農具を盗み、近村の質屋や倉賀野宿の人足部屋へ質入していた。盗品の件数は二十件、金額は二両と銭五千七百文であった。

ひとつひとつはケチな事件であるが、当時の実情背景を考えれば、これが大悪党となるのであろう。

一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて、関東の農村はますます荒廃、博打、地芝居、遊興が盛んとなり、農村社会からはみ出す者も増えていった。このころの社会の掟は共同体からの排除が基本であり、排除された者たちは徒党を組んで、また新しい犯罪予備軍となってゆくことになる。無宿者から博徒が生まれ、その博徒から互いに盃をかわす親分子分の関係が生まれ、貸元である親分は賭場の勢力範囲である「縄張り」を武力を行使して広げていった。

村落共同体から排除された者はそのほかに、親からの勘当、駆け落ちなどもあるが、いずれにしてもその原因は関東農村の貧困にある。博徒のほかに無宿の非人や乞食となった者もいたようだ。

こんな体制からの脱却状態は、多少形は変わっても、現在に通じるものもあるのではないか。

このころの俳諧はどんな状況に置かれていたのか。芭蕉はとうに亡く、蕪村も死に、そのあとに残ったものはおびただしい月並みの山であった。ただひとり、この月並みをすこし逸脱した俳人がいた。

それは小林一茶。

忠治が殺傷事件を起こして下野に逃れ、大前田英五郎の元に身を寄せたのは十七歳のとき、文政九年(一八二六年)。その翌文政一〇年、ふるさとの信濃柏原で大火にあった一茶は焼け残りの土蔵で六十五歳の生涯を終えている。一茶と忠治、この荒廃の時代に十七年間の重なった生がある。

どちらも共同体からの逸脱者であるが、その形や事情にはすこし隔たりがあって面白い。

 

小林一茶と国定忠治が生きていた文化、天保、嘉永の時代、この国はどんな状況に置かれていたのか。おもな事項だけでも振り返ってみよう。

文化元年(一八〇四年)ロシアよりレザノフ長崎に来航、 通商要求
文化五年(一八〇八年)間宮林蔵樺太探検、フェートン号 事件発生
文政八年(一八二五年)異国船打払令
文政一一年(一八二八年)シーボルト事件
天保四年(一八三三年)天保の大飢饉はじまる
天保八年(一八三七年)大塩平八郞の乱、モリソン号事件
天保九年(一八三八年)中山みきによる天理教開祖
天保一〇年(一八三九年)蛮社の獄
天保一二年(一八四一年)「天保の改革」
天保一四年(一八四三年)人返しの法発令、水野忠邦失脚
嘉永六年六月(一八五三年)ペリー浦賀に来航

徳川の鎖国政策にほころびが見えると同時に、虐げられた民衆にやっと外に向く眼が開きはじめたのである。

しかし、これらはあくまで中央、江戸を中心としたこと。忠治や一茶の生きている上州や信濃ではまだまだ遠い出来事であった。

余談だが、この当時の世界は、ナポレオンの即位、ウイーン会議、モンロー宣言、阿片戦争、そんな時代である。

元に戻って、当時の上州と信濃の関係を地理的に見てみよう。

『赤城録』という記録が残っている。過日、筑波大学付属図書館でこの写本に初めてお目にかかった。

筆者は羽倉外記用九またの名は簡堂。上野、下野などの代官を歴任したのちに、老中水野忠邦の推挙により勘定吟味および御納戸頭を兼任、退官後は江川太郎左衛門英龍(坦庵)、川路左衛門尉聖謨(敬斎)とともに、幕史の三兄弟と称された人。この羽倉外記が往時の上野の代官時代のことを書いた記録である。

浅才の私などには読みきれない事項もあるが、そこにこんなことが書いてあった。

天保五年(一八三四年)忠治が島村伊三郎殺害後、信州松本の親分勝太の元へ草履を脱いだことがある。

さらに、天保七年春、弟分の茅場の長兵衛が中野の目明し滝蔵と本陣忠兵衛の次男波羅七(原七)に殺されたと聞き、復讐のため、鉄砲、槍、刀で武装して子分とともに信州に乗り込むが、すでに二人はお上の御用となってしまっていた(ちなみに、このときさきを急いだ忠治が関所手形なしで大戸の関所を通行したのが、のちに磔刑となった原因といわれている)。

上州の赤城山麓を縄張りとする忠治が隣国とはいえ、なぜ信濃とのかかわりを持ったのであろうか。

その大きな理由として信州が関東取締出役の管轄外にあったことが挙げられる。文化二年(一八〇五年)からはじまる関東取締出役は、幕府直轄領、大名領、旗本知行所、寺社領などが錯綜していた関東では悪事をして他領に逃げ込む者の逮捕が困難であり、これらを一括して取り締まるべく設置された。通称「八州廻り」いわゆる関八州を御領、私領の別なく取締まりできるようにしたものである。ただし、水戸藩、川越藩領だけは例外だった。

信州はこの八州廻りの管轄外、罪を犯したものは当然、そこに逃げこむことになる。

現在もあまり大きな変化はないが、山国である上州から信濃へ通じる道は数すくない。一番大きな街道は中山道、しかしここには碓氷関所があった。当然、彼らの道は監視の甘い脇往還、裏街道ということになる。上州の北大戸から信州街道の狩宿、鎌原、大笹、鳥居峠を越え、大笹街道、須坂、長野に抜けるもの。もうひとつは草津道から渋峠を越え、中野にいたるもの。

これらの道は咎人の道であるばかりでなく、一般旅人の道であり、またモノを運ぶ道でもあった。江戸と信州、上州を結び、煙草、米、塩などが多く運ばれたという。

もちろんこれらの脇往還にも関所はあった。信州街道の大戸関所と狩宿関所、大笹関所等々である。しかしこれらの関所の規模は、藩主が努める碓氷関所などに比べると、規模は相当小さく、たとえば、安中藩主による碓氷関所の番頭二名、平番三名、同心五名、中間四名、箱番四名、女改め一名などと比べても、幕府代官の直轄していた大戸関所などは、役人四名、それも交代して務めるものであったという。

この大戸関所を国定忠治も越えている。もちろん手形などはなし。天保五年(一八三四年)、島村伊三郎殺害後、信州松本の親分を頼って旅に出たとき。そして天保七年、さきに書いたように、茅場の長兵衛の仇を取るため、信州中野に乗り込んだときである。

まえに私はこの時代をわずか十七年間だけすれちがった信州の小林一茶の名を書いた。中風のため一茶の死んだのは文政十年(一八二七年)。その前年、忠治は初めて殺傷事件を起こし、下野国大前田英五郎の元に身をよせていた。

私は忠治と一茶の街道でのすれちがいに期待したのだが、忠治が信州に入ったころ、一茶はすでに亡く、どうやらそれは無理というもののようだ。

(つづく)

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