〔週俳11月の俳句を読む〕
山口昭男
串団子
短日や揚物にほふ改札口 吉田悦花
日々の生活の中で改札口の匂いほど日常化しているものはないだろう。それが意識され、「揚げ物」と断定できるようになるのは、冬はじめ、師走を迎える12月。だからこそ、この句の「短日」は動かせない季語となっている。俳句という詩は、そういう日常的な諸相を鮮明に描き出してくれる。そこに、ほっとしたものがあり、癒されるものがある。
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言いかけてやめたかたちの茸かな 月野ぽぽな
「言いかけてやめたかたち」などという言葉遣いは、私の知っている俳句ではなかったものである。それでもそんな形の茸があっても不思議ではないと思わせてくれるのが、俳句の強さであろう。ぽっと口が開いて、そのまま一瞬止まってしまった状態の人間。それが、かさを大きく広げたままのぼやっとした茸に見立てているというのが、面白い。
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冬灯砂吐く貝の水の揺れ 対馬康子
砂を吐いてる貝でもなく、吐いた砂でもなくて、水でもなく、その水の揺れに心動かされるのは、俳人ぐらいかもしれない。この水の揺れに詩情があり、「冬灯」との関係の中で、さらに詩の純度を増していく。俳人しか味わえない表現をここではじっくりと味わい、水の揺れに己の心持ちをのせていきたい。
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外套の汲めども尽きぬあをさかな 櫂未知子
外套の色というのは、様々だが、「青」といわれると着ている人物も特定できよう。その外套を着ている紳士の青が、透き通った空の青さではなく年季の入った重たい青だと考えれば、「汲めども尽きぬ」という表現が納得される。私の着ている青いコートなどすぐに尽きてしまうような青さだが、この外套の青にはそれを着ている紳士の人格までもが反映されているように思える。
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ゑのこぐさ小雨の粒をその中に 小川春休
「小雨の粒」というのが、よい。えのころ草の中だからさらによい。たったこれだけのことだが、小雨の降っているあたりの様子が手にとるようにわかる。えのころ草は一本ではない。連なって茂っているえのころ草。雨が音もなく注いでいる。今、雨粒を一杯含んでいるえのころ草がまさに、その粒を落そうとしている。「その中に」では、もう含みきれないくらいになりつつあるのだろう。そういう情景がよい。
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凩のつっと絶えたる葦の丈 池田澄子
この俳句の空間は、広い。凩が吹いていた時間をも想像させてくれる一句となっている。そして、凩の吹きようも。そこには、葦という存在が大きく働いている。凩が吹いているときの葦、それが止まったときの葦、その様子が「丈」という言葉で表されている。空へ伸びる、河原に一面に延びる景色をも想像させてくれる。本当に空間というものを感じさせてくれる句だ。
師走には少し間のある串団子
「串団子」が絶品。というより、尋常ではない。まるで、串団子が「ここは、わたしの場所よ」といわんばかりにどっかりと腰を下している。「忙しい師走まで、まだ時間があるので、ちょっと一服して串団子でもどうですか」といううれしい串団子の配慮も伺える。この尋常ではない季語の置き方と間合いは、たいへん新鮮に感じられた。
■角谷昌子 祗園町家 10句 ≫読む
■月野ぽぽな 秋 天 10句 ≫読む
■小川春休 三 歳 10句 ≫読む
■櫂 未知子 あを 10句 ≫読む
■池田澄子 風邪かしら 10句 ≫読む
■吉田悦花 土日庵 10句 ≫読む
■対馬康子 垂直 10句 ≫読む
■豊里友行 戦争 10句 ≫読む
■大井さち子 かへる場所 10句 ≫読む
■西村麒麟 布団 10句 ≫読む
■太田うさぎ げげげ 10句 ≫読む
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2009-12-06
〔週俳11月の俳句を読む〕山口昭男 串団子
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