2009-12-13

〔週俳11月の俳句を読む〕沢田和弥 余白なきまで

〔週俳11月の俳句を読む〕
沢田和弥
余白なきまで


奥の間に蒲団伸べある町家かな   角谷昌子

奥の間に蒲団があればすぐさまエロティックな想像(もしくは妄想)を
してしまう。この句に満ちる静けさは大人のエロスであり、
まさに艶というものである。
夕食の風景にわずかに写る奥の間の蒲団。
夜の営みを象徴しているものの、
若者の無軌道でがさつなエロスではない。
静かでありながら丁寧に愛し合う、
もしくは静かだからこその燃え狂うような情念をもった艶である。
町家という言葉がそれをさらに強意させていることは言うまでもない。

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少女たち林檎噛んだり光ったり   月野ぽぽな

なるほど。確かに少女たちは光っている。
電燈のように光る少女がいれば、
ネオンのように光る少女も暗黒星のような少女も。
その光りと並列に「林檎噛んだり」。
食むのではなく噛む。あのシャリという音。
真っ白な上の前歯と下の前歯が林檎へ食い込み、
沈みゆく刹那。顎関節にかかる力。林檎から
少女の歯、歯茎に伝わる確かな抵抗。
それは少女の特権のような瞬間であり、
まさに光るものだけが許された行為である。

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車窓より月のさし込む忘れ物   小川春休

「世界の車窓より」からも分かるように、
車窓といえばやはり電車ととりたい。
山手線のような椅子の並び方ではなく、
東海道線のような椅子の並び方。つまり
二人用の席が全て進行方向に向いていて、
それが左右にあるという配置。
誰もいない。その車両に進行方向を背にして
車掌が入ってくる。ついさきほどこの車両を通過し、
一番前の車両まで行き、車掌室に戻る途中。
50歳をわずかに過ぎた車掌。
中肉中背。いや最近、中年太りが気になっていて、
20年連れ添う妻からもダイエットをすすめられている。
騒がしいのは苦手で飲みに行っても
一番隅の席でラガービールをちびちびと
飲むにすぎない。そんな車掌。
ふと目にとまる。さきほどは気がつかなかった巾着袋。
小さくて朱色にわずかな水玉が浮かぶ袋。
忘れ物か。
窓からさしこむ月光。
持つと軽い。中は空か。一瞬見つめ、
何もなかったかのように巾着袋を片手に車掌室へと戻っていく。
定年退職ももう目の前の或る夜のこと。

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母を出でゆく赤きあれこれ雪降りぬ
父に会へる電気毛布にまどろめば   櫂未知子

対照的な2句。
「赤きあれこれ」を出しながら生きている母と
「電気毛布でまどろ」むことで会える夢の中の父。
「赤きあれこれ」という即物的な表現と
「まどろめば」という倒置法から生じる余韻。
赤に白き雪という色彩は夜の病室をイメージした。
夜の深い藍色がさらに句の中の色を印象深くしている。
父に会ったのは午後のこと。白昼夢と言っては過言かもしれないが、
ちょっとした昼寝の中のこととイメージした。
昼のやわらかな光がこの句を包んでいるように思う。
対照的でありながらどちらも、色彩や光によって美しい
状景を伴う純度の高い句である。

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短日や揚物にほふ改札口   吉田悦花

「西口東口」のような大きな駅ではない。
住宅街の中心にある改札口の一つしかない
私鉄の小さな駅。商店街がすぐそばにあり、
夕暮れ時に買い物をする人や帰路につくサラリーマン、
子どもの声、威勢のよい八百屋のおじさん、
ゆっくり走る軽トラックのがたがた揺れる音。
改札口を出ると揚物のにおい。
小さな立ち食い蕎麦屋か。それとも肉屋のコロッケ、メンチカツ。
弁当屋かもしれない。食堂か。居酒屋もありうる。
早く暮れてしまう冬に揚物のにおいはなんともほっとする。
それは家庭のにおいであり、仕事から解放されたにおいである。
穏やかで優しい気持ちにさせてくれる
ほくほくとした一句である。

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土に触れ聖書に触れている晩秋   対馬康子

カトリックというよりはプロテスタント。
聖書は新約聖書。「土に触れ」から農民。
ルソーの「落穂拾い」などのバルビゾン派の絵画を
想起させる。一日の終わりの静かな祈り。
信仰とは派手なことでも難しいことでもない。
祈りに代表されるようにきわめて素朴なものである。
「信じる」ということは素朴でありながら、
とても難しい。「信じる」とは対象に全てを
委ねる。行為自体の難しさもさることながら、
「信じる」とは何かということもたいへん難しい。
しかしそんなことや詭弁を積み重ねたところで
「祈り」の純心さを説明しつくすことはできない。
祈りの素朴さや静けさを内包するやさしい一句である。

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戦争が沖縄泳ぐ余白なし   豊里友行

沖縄にはまだ行ったことはないが、先の戦争で
最も被害を被った場所であり、アメリカによる統治、
米軍基地問題等、現在の日本でもっとも
「戦争」を感じる場所というイメージがある。
「余白なし」が今もなお沖縄に包み込む「戦争」を
痛いほどに感じさせて余りある、強烈にして
まことに的確な一言である。
余白なきまでに戦争が泳ぎ続ける沖縄の海に
いつになれば余白なきまでの平和と安らぎが
訪れるのか。
桑田佳祐の歌がふと頭をよぎる。



角谷昌子 祗園町家 10句  ≫読む
月野ぽぽな  秋 天 10句  ≫読む
小川春休  三 歳 10句  ≫読む
櫂 未知子 あを 10句  ≫読む
池田澄子 風邪かしら 10句  ≫読む
吉田悦花 土日庵 10句  ≫読む
対馬康子 垂直 10句  ≫読む
豊里友行 戦争 10句  ≫読む
大井さち子 かへる場所 10句  ≫読む
西村麒麟 布団 10句  ≫読む
太田うさぎ げげげ 10句  ≫読む

3 comments:

東京の大城 さんのコメント...

こんな所に記事が・・・。見逃していました。

「俳句樹」( http://haiku-tree.blogspot.com/2010/10/3_7395.html )で豊里友行さん。

「戦争」という大々的なテーマはやはりイデオロギーに負けています。もっと豊里さんらしい感性を活かした俳句の切り口を見たいものです。かつての俳人たちの中にも戦争に警鐘を鳴らすような俳句は少なからずあります。

「戦争が沖縄泳ぐ余白なし   豊里友行」は上記の理由で後もう一歩詩的表現を駆使したら秀句になりえると思います。

なお さんのコメント...

そんなことないです。
それはイデオロギーに染まった読み手なんじゃないですか。

石川 さんのコメント...

ま~ま~二人とも「俳句樹」で豊里さんのコメントもとても興味深いですよ。ぜひ見てみてください。