2010-01-10

〔週俳12月の俳句を読む〕外山一機 表現内容以前の問題について、三つ

〔週俳12月の俳句を読む〕
外山一機

表現内容以前の問題について、三つ




井口吾郎「一万馬力 2009回文秋冬コレクション」

文化の日剥くから掻くムヒの患部  井口吾郎
恋なら松の湯冬のつまらない子

回文による句作の方法論的特徴の第一は、作り手にとって思わぬ言葉を手繰り寄せることを可能にするという点にあろう。だが、これはあくまでも一句を成すまでの手続きに対しての評価であって、それが俳句表現自体の評価に結び付くというわけではない。そこで実際の句にあたってみると、「一万馬力」には「誰が命も茸の気持ちの鋳型」のようにナンセンスな句がいくつか含まれるが、たとえば上記二句はそのナンセンスさと詩としての完成度において二十句中の白眉であろう。

とはいえ、「一万馬力」の面白さが回文という方法の面白さに負うところが大きいのはいうまでもない。(これはむしろ肯定的な言い方なのだけれども)「一万馬力」は、いわば表現内容よりも、そのように表現するという行為それ自体にアクロバティックなパフォーマンスとしての面白みを見出す方がおそらく真っ当であり、したがって、この作品の表現内容を評価するばかりでは、「一万馬力」の面白さをついに見誤ってしまうのである。ところが、僕らは俳句についてそれをパフォーマンスとして評価するやり方をほとんど知らないし、そういった仕方での評価というものは、俳壇においてほとんどなされることがないことに気づかされる。



長谷川櫂「追悼」

12月の週刊俳句において、連作としてひとつの作品世界を構成することに最も成功していたのは長谷川櫂のそれであろう。第一句目で前書とともに「川崎展宏氏」との「息やめてしまふが別れ」という、あっけなくも厳しい永別が詠まれ、続いて葬儀、第五句目以降は帰宅後の感慨へと時間軸に沿って句の主題を少しずつ移動させる。一方で、十句に通底している「追悼」という根本的な主題はあくまでもぶれない。

いま「十句に通底している「追悼」という根本的な主題」と書いたが、たとえば次の句だけを取り出したとき、そこから「追悼」という主題を読みとるのは困難である。

熱燗やがさつな奴が大嫌ひ   長谷川櫂

にもかかわらずこの句を「追悼」の句として読んでしまうのは、この句を「追悼」の句として読ませるための装置が有効に機能しているからにほかならない。その装置とは無論、「追悼」というタイトルや「川崎展宏氏、死去」をはじめとする前書、そして時間の流れに沿ったあたかも実況中継のような十句の構成のことである。これらの装置によって読み手はまるで「川崎展宏氏の死去の知らせを聞いて葬儀に駆けつけ、帰宅した後晩酌をしつつ故人に思いをはせる長谷川櫂」による内面の告白を読んでいるかのような「気分」になるのである。わかりやすい主題と「川崎展宏」という著名な俳人の実名、そしてその「死」という俳壇的によく知られたニュースが最初に提示されているのは、それが俳句のウェブマガジンというきわめて俳壇的な場に載ることで読み手にどんな「気分」を与えるかということまでを想定した、長谷川の周到な配慮である。

だが本来、十句のいずれにおいても、詠み手は長谷川櫂に違いないが、たとえば「わが心花とほぐるるほどの燗」の「わ」とは、必ずしも「長谷川櫂」のみを指すわけではない。ところが、この「わ」が「長谷川櫂」でないと面白くならないのが長谷川櫂の句の特徴である。それは、何より上に述べた各種の装置が「長谷川櫂」の告白としての十句であることを欲しているためであり、あるいは読み手がその装置に乗っかることで気持ち良く句を読もうとするからであろう。換言すれば、この装置によらない読み方をするのはなかなか困難で、無論可能であるけれども、装置によった場合よりもはるかに貧弱な内容しか読みとることができなくなってしまうのである(「熱燗や」の句はその見本であろう)。こうした方法上の徹底ぶりは、実作者として実は相当に恐ろしい態度なのではないだろうか。



村田 篠「数へ日の」

「週刊俳句」第140号には四つの俳句作品が掲載されているが、その八割余りを冬の句が占めている。冬だから冬の句を、ということなのだろうが、もしもこうした事態が集団的に・無自覚に起こりうるのが「週刊俳句」という場であるならば、率直にいって換気の悪い場であると思う。

もちろん、冬に冬の句を発表してはいけないというのではない。だが、「冬だから冬の句を作るのだ」とか、「冬には冬の句が作りやすい」といった論理を採るということは、本州を基準とする気候に即して自らを表現するという方法に則るということであり、換言すれば俳句の詩としての可能性を相当程度断定して句作するということである。「冬には冬の句を」というのは、いわば呪文のようなものであって、良し悪しは別としてそれを自らの方法論に取り込むことには、だから、実作者としてのそれ相応の覚悟が必要になるはずなのである。

村田篠がそうした覚悟のもとに書いているかどうか僕は知らない。けれど、「数へ日の」を読むかぎり、それが冬の句ばかりで構成されているにもかかわらず、それらが冬の句であるという事実に寄りかかっていないところに村田の実作者としての自恃がうかがえる。

汀まで人家ありたるクリスマス   村田 篠

「クリスマス」という祝祭の明るさと「汀」の迫る危うい「人家」のイメージとがあいまって、生きる者のもつ暗さを描き出している。その意味では「へろへろとワンタンすするクリスマス」と似ているが、村田の句には秋元不死男の句ほどのユーモアはない。ならば、この「暗さ」の着地点はどこにあるのだろう。

数へ日の川モーターの音ひとつ

この「数へ日」は二〇〇九年の年末のことを指すのではない。むしろ「年末」という語意からさえも離れて、「新しい何か」を待つ気分を漠然と指しているのだろう。静かな「川」に響く「モーターの音」は、一見空しいもののようにも思える。けれど、「モーター」を鳴らした者は「何か」を目指して「川」を渡ろうとしているのだ。先の句では「汀」と「人家」とが互いの境界を堅持しようとしていた。「人家」の暗さは、「汀」との境界線を保持しようとするがゆえの暗さであったともいえる。一方、後者の句では「川」を渡っていくのだ。そのための「モーターの音」は決して空しいだけのそれではない。高らかな――だからこそより空しさもまた際立つ――「音ひとつ」!


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