2010-01-10

〔新撰21の一句〕五十嵐義知の一句 谷口智行

〔新撰21の一句〕五十嵐義知の一句
視点の移動を許さない ……谷口智行


滝壺に届かざるまま凍りけり  五十嵐義知

すべての水の向かう先は海だ。

なだらかな大河に、そして大海原に至るまでに水は流れたり、落っこちたり、潜んだり、留まったり、噴き出したり、凍ったり、沁み出したり、浮遊したりして相当の冒険をしている。

日本は滝の国と言っても過言ではないが、熊野山中にも大小さまざまな滝が数えきれないほどある。車で行ってちょっと歩けば拝むことができて、あげくの果てに夜間照明まで備えているような滝はつまらない。

厳寒期ともなれば山道はどこも通行止めだ。滝からずいぶん離れた所に車を停めるしかない。猟師も山師も雪女も足を運ばない雪のガレ場を延々と命がけで突き進んでゆく。

人を拒絶するような貌をした滝がそこに懸っている。冬の山中では小枝に凍りついた一雫にさえ大河への気魄を見る。凍滝に対峙すると凍ってしまった滝水に怨磋の声を聞く。

美しく調和のとれた楽章が夏の滝なら、凍滝は不協和音によって構成された楽章だ。本筋からはじき出された小流れの縷々たる囁きが必ず聞こえる。

ドラマの内包性や作品の二重構造という点からみれば、自殺志願の者が滝口から投身を試みたにも関わらず、落ちる途中で凍りついてしまったというのも鑑賞も許されよう。人の氷柱のごとくに。いやこの際、人柱と書いてツララと読まそうか。

むろん滝づらに神や仏を見るというのは普通の話だけれど。

五十嵐さんのこの一句、心情的にもわずかの弛緩も許さぬ緊張感の所為。読み手の視点の移動を許さぬホンマもんの句の強さがある。遖。



『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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