成分表33 飲酒
上田信治
初出:『里』2009年1月号
空港のラウンジに無料のビールがあると、多くの男性がそれを見過ごしにできず、一杯二杯と飲んでしまう。
その種のラウンジに入場できるのは、高額の航空券を利用する人たちであり、また、飛行機に乗ってしまえばビールは無料なので、あわてて飲む必要は全くないのだが、飲まないと何かに申し訳が立たないかのように、飲む。
それは、道に落ちているお金を、拾わずにおくのがむずかしいことに似ている。金銭を、わざと拾わずに通り過ぎれば、胸がちくりと痛むだろう。それは、自分の中の「金銭を大切だと思う心」を、自ら傷つけたことによる痛みだ。
だいたい「金」と書けず「お金」とか「金銭」と書いてしまうことから分かるように、この世には、なぜか呼び捨てにしにくいものがある。「金」「酒」「女」というふうに(内的言語と同じ言い方で)、そういうものを呼び捨てにすることは、慎みを欠く行為である。それは欲望の対象であり、神聖な存在であり、つまり、ひっくるめて貨幣のアナロジーで語るにふさわしい。そういうものの名を呼び捨てにすることは、相当自分を粗野に見せる自己演出抜きには、できない。
男なり酒にはなみず垂れるなり 清水哲男
「男」もまた呼び捨てにしにくい言葉で、してみると、男性にとっての男性性も、また神聖な欲望の対象であるということかも知れない。
ところで、飲酒は、私たちの文化的無意識において、スポーツの一種と見なされる。それは、男子中学生にとって、徹夜がスポーツの一種であるのと同様にである。
スポーツのもっとも素朴な定義は「身体を使った楽しみ」であろうが、古代西洋における起源から、それは男性性の優劣を競う「競技」でもあった。
そして、どこでどう間違ったか、私たち現代男性の多くが、飲酒を、娯楽であり、競技であり、鍛錬であると考えている。私たちが、お酒を飲むことにおいて、つい「がんばってしまう」所以である。
それが、自己の優位性を示すための「がんばり」でしかないなら、救いようがないが、もうひとつ、スポーツには、共同体に娯楽を供する「祝祭」としての性格がある。
私たちは、飲酒によって、自身を何か神聖なものに捧げている。それは、何か美しいことであるはずだ。何に自分を捧げているのかは、さっぱり分からない。
汝の年酒一升一升又一升 阿波野青畝
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