2010-02-28

新撰21の20人を読む 第4回 おどけて見せる男と飛ぼうとする女

新撰21の20人を読む 第4回

おどけて見せる男と飛ぼうとする女

山口優夢


 


うつとりとして群がりぬ卒業子

行こうと思えばどこにでも行ける。彼の俳句からは、そんな不敵な笑みがこぼれてきそうな気がする。書け、って言われればなんでも書きますよ、という感じの。

たとえば

君に逢ふため晩夏のドアいくつひらく

座りゐてきれいな人や冷奴


開戦や身近な猿の後頭部


これら三句を同一作者が、しかもほとんど同じ製作年代(10年は隔たっていない)で書いているということは、ほとんど信じ難いことと思う人も多いのではないか。一句目の抒情性、二句目の定型的美意識、三句目のナンセンス、それぞればらばらな方向を向いて、しかも、どれも彼の素顔とは見えない。

この、どれも彼の素顔とは見えない、という三句に共通の特徴は、彼の100句一般の特徴と言い換えることもできる。すなわち、対象物との距離感が広くとられている、別の言葉で言えば、対象にのめりこまないスタイルなのだ。たとえば一句目、「君に逢ふため」という出だしでは、青春っぽいドラマにのめりこんでいきそうな素振りを見せていながら、下五の「いくつひらく」という結びは、ドアが何重にもなっているという面白味のほかに、「ひらきゆく」とか「ひらきけり」とか「あけゆかむ」のような言い方に比べて、だいぶ体重がかかっていない感じがするところも特徴的であるように感じる。

また、二句目、三句目では、かっちりと俳句の型にはめられていることが、かえって対象との距離を広げているように感じる。すなわち、座っていて綺麗な人を熱っぽく語ったり、身近な猿の後頭部に対して愛情や嫌悪のような強い感情を持っていたり、そのような俳句ではないのだ。彼が細心の注意を払うのは、自分の感情や感覚を見せることに対して、ではなく、修辞面でのうつくしさを極限まで求めることに対して、である。

そのあたりの事情は一句目のようにかっちりと俳句の型にはまっていない句についても同様である。七音+六音+六音という極めて変則的な音数の組み合わせであるにも関わらずこの句をすんなりと読めてしまうのは、句の中に切れを置かず、一気に読み下すような構成にしていることが大きいだろう。上五と下五の音が両方とも増えているために、中七が中六になっていてもあまり違和感を感じない、むしろ、一句の中に吊り橋を渡る危うさにも似た緩急がついて面白い、という稀なケースと言えよう。もちろん、五七五に慣れ親しんでいるからこそできる、高度なテクニックなのである。

前のめりにならず、修辞面でのうつくしさを追求してゆく彼のスタイルは、一体何に由来しているのか。それはおそらく、彼が句の中で時折見せる冷笑的な態度とも言うべきものに関係しているのではないか。

大鰻くろぐろと焼け村のごとし

ああせねばタオル乾かぬ年尾の忌


猪肉に元気な頃のありにけり


一句目、なんとも鑑賞しにくい句だ。それは、この句が「大鰻」の生命力、とか、「村」に対する負のイメージ、といったような、一般にテーマとしてあり得そうな言い回しの枠外へはみ出して行こうとする得体のしれない力を秘めているから、のように思える。いずれにしろ、このような句を書く彼の「村」を見る目線は、決して温かいものであるはずはない。しかし、ここにたとえばそのような「村」の存在に対する忸怩たる思いのようなものを嗅ぎ取ることは、少なくとも僕にはできないのだ。むしろ、「村」とはそんなものなのだから、仕方がないだろう、という軽いあきらめのような、単なる認識を示しただけですぜ、といった態度の書かれ方が、さきほどから言及している「冷笑的」な態度へと通じているように、僕には思えるのだ。

あるいは、二句目、誰かが一生懸命タオルを乾かそうと必死になっている姿を指さして、「ああせねば」などとどこか憐れみのこもったような小馬鹿にした言い回しをするところ、三句目で命を奪われた猪肉の生前の姿を「元気な頃」というさらりとした言い方で受け流し、しかもそのくせに「ありにけり」などという大仰な言葉でわざと飾り立てて見せるところ、これらが冷笑的でなくてなんであると言うのか。

これらの句は、どれも外側から書かれているのだ。「村」の外側、「タオル」を乾かしている場面の外側、「猪肉」の外側。詠まれている対象の内側に入り込んで句を詠もうということはしない。そして、その書き方は、非常に「うまい」。普通、俳人にとって五七五という定型は、ささいな事象や一瞬の出来事を転換点にして季節のような大きな時空を呼び込むための装置であることが多いが、彼の場合、そのような俳人としてのきわめて普通なプロセスをなぞっているにも関わらず、そこになんらかの心情をこめることはほとんどしないため、結果的に、そこには俳句のレトリックだけが残り、俳句を作ること自体が、俳句に対する批評になっているように感じる。

あるいは、なんでそういうことが起こるのか、と言えば、世界に対してまともに向き合うことに対するおそれや照れのようなもの、が彼の中に渦巻いているからではないだろうか。

筍をしづかに運ばねばならぬ

一本の柱を崇め夏休み


なぜかは分からない。筍を核弾頭か何かのように扱っている、と僕は読んだ。奇妙な畏怖、のようなものを彼が覚えているようだ。その畏怖は、「一本の柱」に対する畏怖と同様に、どこか演劇的で、どこまで本気で恐れたり崇めたりしているのか分からないところがある。半分はからかいながらも、おそれているような感じ。

僕はこの句を読んでいるうちに、彼は、自分の生きている世界を表現するにあたって、五七五という古めかしい器で戯画化しなければ自らの照れや恐れを克服できないのではないだろうか、と思えてきた。五七五を使うこと自体が、すでにおどけて見せること、になっているのだ。それはたとえば、「赤信号 みんなで渡れば こわくない」というようなおどけ方、五七五の枠組みの使い方と、本質的には同じということである。

ある場面に対する感動や思いのたけなどを述べることのできない最短定型詩である俳句を彼が選んだというのは、そういう意味で非常に納得がゆく。彼は、そういったものをストレートに述べるには含羞を持ち過ぎていたからこそ、俳句にやって来たのではないだろうか。

大いなる椿となりし椿かな

春のくれ馬糞は馬を離れけり


これらの句の、「椿」や「馬」を反復することで生まれるレトリックの妙は、やはり彼が大真面目にふざけているからこそ出せるものだろう。このような世界の写し取り方は、それ自体がすでに価値のあることではないか。それはすなわち、俳人として、あるいは、言ってしまえば芸術家として、一連の作品に自己を投影できているということであり、彼にしか書けない俳句を書いているということなのだ。だから、

夏芝居先づ暗闇を面白がる

先生の背後にきのこぐも綺麗


これら二句は、一見まるで異なる場面、てんでばらばらな方向性を持っているように見えるけれども、やはり、ある世界観が通底しているのだ。どのような世界に対しても彼はそこから一歩身を引き、それを定型に落とし込むことでおどけて見せているが、実のところは冷笑的にそれらを眺めている。そういう彼の批評的な目が、「夏芝居」にも「きのこぐも」にも向けられているということに僕は瞠目する。彼の批判したい対象は、別に伝統的な俳句という狭い領域のものではなく、この世界そのものなのだ。だから、彼の句自体も、「きのこぐも」の句のように、従来の俳句の範囲から逸脱したって一向に構わないのである。

冒頭に掲出した「卒業子」の句は、そのような彼の句の特徴が最も端的に表現されているように感じる。「卒業子」の様子を「うつとりとして」などと表現している時点で、彼自身は全くこの卒業という事態に対して「うつとり」していないのである。おそらく彼も卒業生なのであろう。にも拘わらず、「うつとりとして群がりぬ」という表現からは、やはり彼は卒業という事態を外側から眺めているのだということが分かる。群れから少し離れたところで、そのように簡単に何かに陶酔してしまえる人たちに、羨望やらなにやらの混ざり合った視線を投げる、それが彼なのである。

卒業を見下してをり屋上に 波多野爽波

しかし、そんな彼は実際にはとてもデリケートで、俳句を批評したくて句作しているわけではなくて、作っているうちにそうなってしまう、というのが本当のところなのではないか。

アルバムの中晴れわたり霜夜かな

はるかな時の流れを越えて、霜の降りる寒い夜に、一人、アルバムの中の青空を切なく見返したりする、これが彼の本来の姿なのである。そこにあるのはみんなの笑顔。陶酔は遅れてやってくる。一人のときに、やってくるのだ。

作者は谷雄介(1985-)



胎内は河原の白さ日傘差す

彼女の句の中に、たびたび飛ぼうとする意志を感じるのは、僕だけであろうか。

果つるとき鳥の輪郭雪しまき

性的なエクスタシーが極まって、鳥の輪郭となった彼女自身が空へ舞い上がって行きそうに思える。飛ぶものとしての鳥が、彼女の100句には何度も登場する。

無月とは石の柩であるか 鳥よ

地下鉄も木霊のひとつ鳥の秋


風花のひとひらづつが鳥の褥


鳥が出てくる場合、どれも句に緊張感がみなぎってくるのが特徴的だ。一句目は、「無月」が「石の柩」という発想そのものに詩的な緊迫感があるが、「石の柩であるか」という言い方にそれを越えて訴えかけてくるような、張りつめた何かがある。二句目、「木霊のひとつ」と描かれると、地下鉄の激しい音はそれ自体が生命を伴っているようにも感じられる。その圧倒的なエネルギーとの対峙に、緊張がみなぎる。三句目は、「褥」が出てくるだけあって例外的にあまり緊張感が伝わってくるわけではないものの、ふと降ってきたり風に舞い上がったりする風花の入り乱れる美しさ、散乱する光の冷たさに鳥が重ねてイメージされることで、詩的空間が形成されている。

これら三句、どれも具体的な鳥が登場してなんらかの動作を行なうわけではない、というところに注意が必要であろう。むしろ、これらの句の中には鳥そのものは実在しないのである。一句目は夜であるし、二句目は地下だ。三句目にいたっては、本当に風花を褥にする鳥などいるものではないのだから。つまり、鳥はあくまでもあこがれるべき存在、自らを導く象徴的な存在として思い描かれている、とは言えないだろうか。

アルコールランプ白鳥貫けり

この句にも「白鳥」という鳥が出てくる。この句も、実景とは考えづらいが、さきほどまでの「鳥」と比べてこの「白鳥」には、重さというか手触りというか、そういう存在感が感じられる。そのような手ごたえを得られるかどうかは、「貫けり」一語にかかっているのであろう。しかし、あまり肉感的にこの句を捉えると、どうもどんどん美しくなくなってしまうようだ。やはりこの句からは、作者が加虐的な幻想を非常に美的に構成しようとしている、ということを了解しておけばいいのではないだろうか。あこがれの存在として飛んでいるはずの白鳥に対する加虐的な幻想。

日雷わたくしたちといふ不時着

そして自分は、自分の愛は、どうなのかというと、やはり颯爽と飛ぶことができず、不格好に落ちてしまっていた。この「不時着」には、しかし、なぜか安心感とでもいったようなものがただよっていないだろうか。飛ぶことのあこがれから解放されているような。それは、「わたくしたち」がもう飛んだから、である。飛び終えたあとの、倦怠にただよう二人、その汗の浮かんだ肉体が、雷に照らし出される。飛ぶことに憧れて、そうして一瞬でも飛んだからこそ、そのあとで帰ってくることのできるこの大地が、いとおしく思えてくるのではないだろうか。

たそがれに地の罅やさし合歓の花

たれかれも蜥蜴でありしころの虹

こうして見てくると、飛ぶことや鳥に憧れるのは、彼女の「女」の部分のようだ。すなわち、彼女の飛ぼうとする意志は、エロティシズムと連動している。それに対して、冒頭の掲出句のように子を産む存在としての自己が思われているとき、彼女はこの大地にとどまっている。河原の白さ、それはほの明るく、流れる水の音のする場所。この永遠に続く静止画のようなしずけさの中に飛びたつ鳥はない。

作者は田中亜美(1970-)




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