2010-02-07

中学生が読む新撰21 第一回 山口優夢・谷雄介

中学生が読む新撰21 
第一回 山口優夢・谷雄介……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
山口優夢論……山口萌人

  父と来る母のふるさと暮れかぬる

僕が初めて知った山口優夢氏の句である。削ぎ落とされた無駄のない言葉、単純にもかかわらず懐の深い味わい。以後最近まで彼の纏まった作品を読む機会に恵まれなかったが、このたび『新撰21』の百句に巡り合った。これを機会に少し彼の作品と作家像について、未熟ながら考察してみる。

 

  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇

まず挙げられるべきは彼の句における措辞の適確さである。その創り出すフレーズには、一読して景が直ぐに立ち上がるような臨場感を持ったものが少なくない。ここでいう「景の立ち上がり」というのは忠実な写生句や自然詠という意味ではなく、広い意味での景、その時の心情や物に対する執着などというものまで含んだもの、と考えてほしい。それが作者一人の自己満足ではなく、読者も共感しうるものとして明確に描かれている、ということである。措辞に心理を投影している、と言ってもいい。

  金魚死になにか言はねばならぬかな
  ビルは更地に更地はビルに白日傘

右二句について例にとって考えるならば、どちらも「死と再生、そして無常観」を描いているという読み方ができる。言葉にすると非常に陳腐に感じてしまわれるかもしれないが、それをある時は金魚という哀れな生物を、ある時はいとも簡単に倒壊させられていくビルという無機物を用いて詩に昇華させているのは、彼の感性の良さはもちろんのこと、その措辞の組み立て方の巧さによるものであろう。

その巧さとは何か。それはまずその客観的な事実を見せ、それを見ている自分(金魚を死なせてなにも言えない自分、ビルを見ている白日傘の自分)を描く。そしてその自分をまたどこかで見ている自分の立場に立って述べてやる、という構造である。フェルメールが自分の絵の中に常に画家姿の自分を描いたようなものである。この自分もその一シーンの中に入り込める描き方が、読者を山口優夢の世界にいざなってくれているのであり、これが同書の佐藤郁良先生が小論でおっしゃるところの、「上質な叙情」というものの正体だと僕は考える。

ここで、彼の句にしばしば見られるもうひとつの技法、とでもいうくらいの特徴を考える。それは、景を具体的な言葉で写生するのではなく、抽象化して描くという方法である。既出の「暮れかぬる」をはじめとして、

  父と来る母のふるさと暮れかぬる
  火に触れしものは火になる敗戦日
 
てのひらもあうらもキャンプ帰りかな

どれも、具体的の描写はなされていないが面白い。一句目、父と来る、というところにどこかネジレ、良い意味での裏切りがある。季語の空気感もうまくついている。二句目、夏の夜のキャンプファイアーでも見ているのだろう。火というものを即物的に読んだが故に、「火=戦火」という連想が救われているか。三句目、「も」の面白さ。泥だらけで元気に日焼けした少年が容易に想像される。このように、述べずに述べる手法とでも言うのか、単純な言葉を使っているのに奥は深い句というものが彼には少なからずあるのだ。これについては、彼自身もそのブログ「そらはなないろ」で似たようなことを考察している。

無意識に口を洩れていく呟きに似せて、鋭いカッターでくりぬいた小窓の、その向こう側には、直接には語られなかったものの、小窓によって示唆されている広大無辺の世界が広がっている。
(俳句解体Ⅲ―季語という思想)

つまり、この作者、確信犯なのである。最低限度の言葉で述べられた秀句は、このような理念で作られているのであった。

 
  サングラスあたまひと振りして外す
 
硝子器は蛍のごとく棚を出づ
  目のふちが世界のふちや花粉症

次に、一物の物を考えてみる。一句目はよく描けているし、二、三句目はフレーズが面白い。さて、ここで仮に二物の句全般の魅力を「出会いの妙」であるとしたならば、一物の面白さは「いかに読者が納得でき、且つ目新しく描けているか」を主眼に置くのが重要ということになるのではないだろうか。すると作家の中に、とりあえず丁寧に描くという方向と、とにかく目新しくキャッチーに描くという方向と、大別して二種類の思考回路が生まれると思われる。このような観点でもう一度前記の三句を考えると、彼の中では最初の句が前者、残り二つが後者の発想で生まれたのだろう。しかし、逆にいえばその忠実さ故に一句目は季語に内包されるイメージの中にある捉え方の範疇に収まっていると思うし、他二句では季語が正直すぎるために少し順当であったり感覚的であったりして、フレーズの魅力や発見がそがれてしまっている。

一方で、

  冬眠の骨一度鳴りそれっきり  (つづきのやうに)
  たなごころよりもおほきな鏡餅 (つづきのやうに)

のようなレトリックの意外性が巧く効いている句もあるため、一概に彼の一物の句を否定することはできないとは思う。百句作品ともなると、このような句があるのは仕方のないことだと思うが、鑑賞の流れの中で、このようなものが良句の余韻の跡に持って来られていることによって違和感が生じてしまっているのもまた事実である。

 
  婚約とは二人で虹を見る約束   
 野遊びの続きのやうに結婚す
   (つづきのやうに)
  淡雪や結んで捨てるコンドーム

先程までとは全く違った句。一句目、ロマンチックである。プロポーズの言葉だろうか。二句目、五十句作品の題名にもなっている句である。後味も非常に良いし、「この間まではこんな小さな子供だったのに…」という驚きや「野遊び」から醸し出される無邪気さ。こういう結婚もあるのだろう、ここでも直接語らない技法が使われている。三句目、「性」を描くこと自体に抵抗がある場合には受け入れ難いのかもしれないが、僕などは場面設定としての淡雪(この「場面設定としての季語」という議論も彼のブログにおいて行われている)が効いているだろうと思うし、さほど抵抗はない。それは事後を描いているからなのか、自分の性格のせいかは判らないが。

このような句は、「俳句はなまの生活である。(中略)生きるといふことと同じなのである」と言った、石田波郷の論を思い起こさせるような、一人の二十代の人間としての生活がそこにはある。すべてが実体験ではないのだろうけれども、ここまで見てきたような青春性を抑えた句に比べ、等身大の彼の思いがよく出ている句である。

他にも、

  卒業や二人で運ぶ洗濯機

といった句もある。卒業というものが二人の新しいスタートという意味で近いのかもしれないが、すっきりとした嘘のなさは爽やかである。

以上、様々なタイプの山口優夢氏の句を見てきたのであるが、そのなかでも、計算してつくられたような叙情句もあればやや薄味の感覚的な句、そして青春を謳歌している若々しい句もあった。これらは並べようによってはどんな句も作ることのできる作者の魅力を引き出すことができるが、あまりにも盛りだくさんで読者によっては彼がどのような方向で詠んでいるのか(俗に言う作風というものである)分からなくなるのではないだろうか。作者像がぶれてしまうのではないか、という印象を受けた。逆にいえばどのような方向にも句を作ることができるということだから、うらやましい限りである。

これからも氏がどんな句で僕らを驚かせてくれるのか、一読者として期待するとともに、紫雁会の一後輩として句の随所から学ばせて戴く所存である。

(注1)句において、無記載は邑書林『新撰21』、(つづきのやうに)は第五十五回角川俳句賞候補作品『つづきのやうに』より引用。
(注2)山口優夢氏ブログ「そらはなないろ


谷雄介論……青木ともじ

今回から山口氏などと協力して『新撰21』の俳人を二人ずつ評することとなった。私の担当は今月は谷雄介氏ということだが、櫂未知子氏の下でも学んだことのあるという彼の句はとても気になるところである。偉そうに書いてゆくこととなるが、未熟な私であることだから誤ったことを書かないかどうか、無礼なことを書かないかどうか、書く前から不安にかられることである。

 寝た順に起きてくるなり猫柳

谷雄介氏の百句を読んだところ個人的な趣味によく合い目を引くものが多かった。この一句目は最も気に入ったもののひとつである。

私は京都や川越など、所謂軒の低い、長屋のような家の並んでいる小路を想像した。路の両側には溝があって路に沿って柳が植えられているのだろう。その長屋の住民たちの互いの親しさのようなものが「寝た順に起きてくる」ところから見えてくるような気がする。しかし、この句を鑑賞する際に別の読み方もできるのではないか。猫柳を擬人化してそれが順に起きてくる、そうも考えられる。文法的に見れば私は前者だろうかと思うが、ひとえに断定するのは難しいだろう。百句のうちの一句目に置く句として、この句はすっきりとした詠みぶりであるし、なかなかしっかりとした句であるのでよかったのではないだろうか。

彼の句を読んでいてしばしば思うこととしてまず次のようなことが挙げられる。言わんとしていることはわかりそうな気はするのだが、句の中の表現からだけではそのすべてを読み取れないということである。いくつか挙げてみよう。

 
  少年のやうな少女と冷蔵庫
  素直にはなれずバナナ越しの再会
  君に逢ふため晩夏のドアのいくつひらく

見るからに青春、といったような句が百句の中にも多く見受けられたが、いくつかは具体的な景が見えてこない。もちろん全くわからないわけではない、すっきりと定まらないというのが正しかろうか。その要因としてはやはり季語の問題があるであろう。冷蔵庫、バナナ、晩夏、そのそれぞれをつけたことを真っ向から否定する気はないが、場所設定、時間設定に終わっており、フレーズの魅力を生かしきれていないように思える。青春性を詠むにせよ何にせよ少しイメージの違う季語にすればその景がわかりやすくなるのかも知れない。もっとも、彼の詠みたい世界とは違ってしまうかも知れないために詳しい言及は避けよう。


一方でそのフレーズと季語との取り合わせ方が成功しているといえるであろう魅力的なものが数多く存在するところが彼の凄い所である。例えば、

  大プールに母の幾人入ることか
  さらさらと帰る枯野の人だかり
  夏芝居先づ暗闇を面白がる


どれも皆面白いところに目をつけている。プールの句も「母の幾人」という捉え方が新鮮かつ実感を伴っており、成功しているだろう。枯野の句も「さらさら」が上手く、夏芝居の句も「面白がる」が上手い。それがなければ当たり前のことなのであるが、どの句もその一言で句の世界を広げていて魅力的なものとしているであろう。この場合プール、枯野、夏芝居、という季語がつかず離れずの距離感を保っていて、フレーズの魅力を生かしきれているといえるのではないだろうか。集約するところ、彼はフレーズが上手いのである。写生の目がきいているとも言えるが、その実感を伴ったフレーズで読者を彼の世界観に引き込むことができている。そこに的確な季語を入れることができれば、上手い句になっている。裏を返せば、季語の選択を間違えたものは①の句のように景が定まらなくなってしまう、ある意味で彼の弱点でもあるかもしれない。よく言われる話ではあるが、難しい言葉を使わずに多くを言い得る、ということが彼の句の中ではできているだろう。また、季語のつけ方が特に上手いと思ったものもある。

 
  石仏の簡単な顔桃の花
  ががんぼの咲くやうにして死ににけり
  大いなる椿となりし椿かな

石仏の句は中国などを思った。「桃の花」が石仏の質感やしっとりとした空気感と合っているだろう。しかし「簡単な顔」という表現は個人的には推すところではない。ががんぼの句も「咲くやうにして」が、ががんぼらしさを出せている。この比喩をわからないという人もいるかもしれないが、この感覚的美しさは私の好むところである。三句目は河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」を想起させられる。この場合、碧梧桐の句ほどは景が見えないという難点はあるが、椿がなんとなくあっているように思える。彼の一物の句は全てではないが、一部のものは季語の特性を活かせている。ここでも彼の写生の目がきいているというのだろう。

 
  上空やミサイルは雌犬となりぬ
  先生の背後にきのこぐも綺麗
  ヤクルトレディーに蜜柑をぶつける未来の遊び

百句あったうちでも最後の十数句は他とは雰囲気を異にしていて私の感覚からしては衝撃を受けた。彼は「下手な人の句を選ぶと自分の句も下手になる」とまで言ったらしいが、寧ろこれらの句こそが彼らしさを表しているのではないだろうか。「上空やミサイルは雌犬となりぬ」。無季であろうか、しかし「雌犬」という斬新な比喩が不思議な魅力を持っている。「先生の背後にきのこぐも綺麗」。「綺麗」といったところが現代人の平和さが感じれられるところでもあり、またこの句の一番の魅力でもあろう。逆に「先生」を題材にしたあたりが現実的な実感を持たせるも「きのこぐも」は虚の世界にあるのだろう。そのあたりが彼の句の魅力であり、反面、句の景をわかりにくくしているところでもあるのかも知れない。しかし、そういった句の素晴らしいところは認めなければならない。それは古来の俳句の固定観念を抜け出した一例といえるだろう。「ヤクルトレディーに蜜柑をぶつける未来の遊び」。百句読んできてまさか最後にここまで衝撃的な句を見せられるとは思ってもいなかった。「未来の遊び」というこの世の人間が誰一人として知ることのできないものを詠んだところに彼らしさがある。ヤクルトレディー、きっとテレビの中なのだろうか、そこに物をぶつけることができる、まさに未来といったところであろうが、ぶつけるものが蜜柑というのがどこか滑稽さが合って面白い。この句でも景がわかりにくいという難点があるが、それはさておき、「蜜柑」という果物が日本の日本たる普遍的な生活観というか、心のようなものが見えてくるのではないだろうか。突拍子もないことを書いているように見えてその判断は確実に我々の生活の中にあるように思える。例えば「先生」「蜜柑」といった単語を使っているあたりである。だからこそ一見変な句に見えても読めば読むほど共感性があり、句の奥深さを感じるだろう。

彼の百句はある意味でのまとまりがある。違った雰囲気を持った句でも、どこか新鮮さがあるのである。それは、フレーズの新鮮さであったり、取り合わせの新鮮さであったりするが、それが良くも悪くも魅力があるということである。ここまで多くある句のうちの一部を見てきたが、端的に言って彼は俳句は上手いが、しかし、思ったこととして、フレーズの長けたものは季語で不釣合いであったり、季語のぴったり合ったものはフレーズにいまいち魅力を感じなかったりするようなところがある。だが、それは裏を返せば素晴らしいフレーズ、素晴らしい取り合わせの感覚を持っているということに他ならないのではないか。そしてそれが彼の実感に基づいているだけに読者にも感銘を与えるのである。また、彼が確実に新しいことをなそうとしていることは句の中に見えるであろう。その句の良さは深く追究するべきものではなく、句を一読みした時に感じる不思議な新鮮さを楽しめればよいだろう。あくまで私自身の主観であるが故に間違った鑑賞をしていることもあるだろうから多少の無礼はお許しいただきたい。




寸評……山口萌人

二氏の句を、それぞれ考察してみた。
 
措辞の上では山口優夢氏は簡潔さ、谷雄介氏はややごたつきがあるようであった。一方の取り合わせの意外性や目の付けどころでは、優夢氏は叙情句が優れているのに対し、雄介氏では素材の面白さ、ドキッとするようなフレーズが光っていると感じた。

例えば、同じ「台風」という季題について比較してみる。どちらがどちらの句かは一旦忘れてみる。

  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇
  台風の夜の猿山のにほひけり

先ほど言った、読みぶりの違いがよくわかると思う。

前者では措辞の面白さが光っているが、結局は薬缶である。
後者では猿山を持ってきた面白さがあるが、「にほひ」の具体性が無い。

ちなみに前者が優夢氏、後者が雄介氏の句。

どちらがより感覚に正直か、と言ったら雄介氏の句である。どちらがレトリックが面白いか、と言ったら優夢氏の方である。もちろん、このように比べることは(全くシチュエーションの違う句であるから)意味が無い、という方も居られるかと思う。しかし、これはこの句だけに言えることではない。

百句全体に目を向けてみると、先程の句に限らず次のようなことが言える。

優夢氏…客観描写が多い。「うれしい」「さびしい」などの心情を表す言葉が少ない。
雄介氏…心情語が多い。「うつくし」「大いなる」など、抽象的な(主観的な)描写がある。

こういった意味では、同じ年齢でもある両者は好対照を成していると思われる。




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2 コメント:

ユウスケ さんのコメント...

萌人さま、ともじさま。谷です。『新撰21』読んでいただき、感想まで。素直に感激しています。ありがとうございました。

ともじさんに指摘いただいた「言わんとしていることはわかりそうな気はするのだが、句の中の表現からだけではそのすべてを読み取れない」というのは自分でも最近悩ましく思っているところでして・・・イタイところを突かれた感じです。

他もろもろ感想はあるのですが、それはまた直接お会いした時に。櫂さんの句会ででも。

繰り返しになりますが、自分の俳句について、なかなかこういう風にしっかりと書いてもらうことはないので、本当に感激したの一言です。次回以降の論も楽しみにしています。

山口萌人 さんのコメント...

ユウスケさま

こんばんは、萌人です。こちらこそ、拙い文章をお読み戴き、有難うございます。感想も下さって感動です(「感」の字が多いなぁ)。

感想を戴けることは僕らにとって自信にも反省材料にもなりますので、非常に有り難いです。「他もろもろ」の御意見も、是非。

講評とは別に、月報紫雁では「座談会形式で100句についての率直な意見を部内で交換する」という企画も進行していますので、そちらもお会いしたときに完成していたらお渡ししたいと思っています(よろしければ、紫雁会にも是非いらしてくださいませ)。

これからも未熟ではありますが、一ヶ月に一度のペースで書かせて戴く予定です。どうぞよろしくお願い致します。

山口萌人