江戸俳句・春 寺澤一雄
三年前から、一日十句をミクシィの日記に書いてきた。日記の題は気に入った江戸の俳句を使っている。引用は主に岩波の古典文学大系か小学館の日本古典文学全集を使ってる。何故、江戸俳句かというと現代俳句を読まないからだ。妙な物を探すつもりで江戸俳句を読んでいる。
猫逃て梅動(ゆすり)けりおぼろ月 池西言水
言水と言えば、「凩の果てはありけり海の音」が有名。逃げた猫が梅の木を揺すったと言う句。梅、おぼろ月が春の季語、そうすると猫は恋猫である。春の気分満杯の句。
春の水ところどころに見ゆる哉 上島鬼貫
一の洲へ都の客と馬刀とりに
かけまはる夢は焼野の風の音
鬼貫の句集『鬼貫句選』は炭太祇の編である。鬼貫は一六六一年生まれで一七三八年に没した。太祇は一七〇九年生まれで一七七一年に没している。同じ頃を生きていたが、会ってはいなかったと思う。「春の水」の句は、「ところどころに」が読みどころだ。その通りの書き方が好ましい。「一の洲」の句も、やったままである。一の洲はたぶん淀川河口の洲である。そこへ京都の客と馬刀貝を取りに行った。潮干狩りの句。「かけまはる」は前書きに「三月十日芭蕉翁懐旧、支考満句興行に」とあり、芭蕉の「旅に病て夢は枯野をかけまはる」から書かれている。春ということで、「枯野」ならぬ「焼野」を使っている。枯野の果ては焼野、また草が生え、枯野となる。芭蕉と鬼貫で循環している。
花に来て飯くふひまや松の風 江森月居
長閑さは障子のそなたこなた哉
「花に来て」花見に出て、昼飯を食べていると松風が聞こえてきた。花と松の取り合わせが、豪華すぎるが、「飯くふひま」でうまく引いている。美味そうな花見弁当ではある。「長閑さ」は障子の至る所に長閑さを感じている。障子は冬の季語だが、春の日射しで明るくなった障子は格別な物がある。
白魚やさながらうごく水の色 小西來山
今更に土のくろさやおぼろ月 十萬堂来山
兩方に髭があるなり猫の戀
春雨や巨燵の外へ足を出し
精進すなといはれし親の彼岸哉
小西來山は十萬堂とも号した。「白魚や」は白魚の透明感を水の色に捉えている。「さながら」がうるさい。「今更」の句、夜見る土は黒々としている。春の土のみずみずしさも伝わってくる。「両方に」は「猫の妻」となっている場合もあるが、「猫の恋」の方が雄雌両方を指していて良い。猫に髭のあるのは当たり前だが、猫の恋でとぼけた味が出た。「春雨や」の句は、春炬燵を上手に言い当てている。足を出すと少し冷たくて気持ちが良かろう。「精進すな」は共感一番である。私の句に「根性の二文字嫌ひ小鳥来る」と言うのがあるが、親が精進するなと言っているのはたいへんなものである。その親を彼岸に思い出している。
耕すやむかし右京の土の艶 炭太祇
川下に網うつ音やおぼろ月
遅き日を見るや眼鏡をかけながら
堀川や家の下ゆく春の水
山吹や葉に花に葉に花に葉に
江戸へやる鴬なくや海の上
野を焼くや荒くれ武士の烟草の火
虚無僧のあやしく立てり塀の梅
いままで、あまり気にしていなかったが、今回江戸俳句を読んでいて、太祇は良いことに気付いた。「耕すや」の句。今から二十年前、私もこのような句を書いた。「耕のここに大寺ありしかな」である。当時、太祇の影響があったのかも知れないが、覚えていない。冬の間、寝ていた土をたがやすと、土にはやはり艶がある。右京だったところが、今は畑である。大寺だったかも知れない。「野を焼くや」はテレビの時代劇のような句である。「虚無僧」もテレビの時代劇によくでていたが、怪しい者であった。「塀の梅」で塀の内を窺っている風情である。
はなみちてうす紅梅となりにけり 加藤暁台
背戸口や芥を潜る春の水 蝶夢
木枕の垢や伊吹に残る雪 内藤丈草
はるさめやぬけ出たまゝの夜着の穴 内藤丈草
鴬や下駄の歯につく小田の土 野澤凡兆
春たつは衣の棚のかすみかな 松永貞徳
上がり帆の淡路はなれぬ潮干哉 向井去来
花守や白き頭をつき合せ
うごくとも見えで畑うつ男かな
くさめして見失うたる雲雀哉 横井也有
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2010-02-21
江戸俳句・春 寺澤一雄
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